スーパーの通路で子供が寝っ転がっている。猛烈な勢いで手足をばたつかせながら泣きわめいていた。傍らに立っていた母親が鬼のような形相で「なんであんたはそうなのよっ、なんたらかんたら‥‥」とヒステリックに叱っている。叱られた子供はさらに甲高く「
今朝のテレビを見ていて、ちょっと考えさせられた。除夜の鐘を止める寺が増えているというのだ。夜中に鐘が鳴るのはうるさいとクレームをつける人がいるというのが、その理由だという。人のものの考え方感じ方は様々なのだから、どんなことにも賛否両論があ
時々妻から見た夢の話を聞かされる。「私は箱根に行ったのだけれど、そこは見た事も聞いたこともない不思議な場所なのよ。それでね、私の幼馴染の○○ちゃんと、学生時代の友人の××さんとが縄跳びしていてね‥‥、ね、面白いでしょ。」 聞かされている私
ニワトリは卵から生まれる。しかし、その卵はニワトリがなければ生まれない。因果関係が循環しているものの例えとして、よく言われる言葉である。約半世紀前、私達暇な学生はこのような議論をよくしたものである。 一般に、理系の学生は卵派、文系はニワト
昨日(12/22)、山下公園の市民集会に参加して来た。途中から雨が降り出して、とても寒かった。フード付きのウィンドウ・ブレーカーを着ていけばよかった。それにしても、参加者の平均年齢が高すぎるような気がする。もっと若者に政治に関心を持ってほしい
総理が友達なら、獣医学部も作れるし、小学校を立てる土地も安く購入できる。強姦して逮捕されそうになっても、刑事局長の一声で不起訴になる。役人は公文書を改ざんしたり廃棄してもとがめられないどころか、そうしないと出世できないらしい。もちろん、公
私は貧乏なのであまり外食はしないのだが、昨日は鯵の押しずしを食べたくなったので、大船に出かけた。大船の鯵の押しずしは割と有名だけれど、その製造元である大船軒の本社でカフェが経営されていることはあまり知られていない。そこでは工場で出来立ての
岩波文庫「ラッセルのパラドックス」(三浦俊彦)をやっと読了。内容は決して易しくないが、とても平明に説明している良書だと思った。特に後半の記述理論についての説明はとても勉強になった。 私は約一年前に「『シューベルト』という名前はシューベルト
昨日は、このところの運動不足解消するために、低山ハイクに南足柄の矢倉岳へ行ってきた。しかし、この頃は山へ登るたびに歳を感じる。若い頃はたいていコースタイムの半分くらいで駆け上っていたのが、65歳を過ぎてからはコースタイムを大幅にオーバーする
自己言及がパラドックスを引き起こす。悪循環原理によれば、不特定の全体に言及しなければ定義できないような定義が自己言及を生む、ということが分かった。ということであれば、直接自己言及したり悪循環となるような表現を、避ければ良いではないかという
「19字以下では表現できない最小の自然数」=無量大数の無量大数乗の無量大数乗の極乗+1 ということになると、左辺が19字ぴったりであるということが問題になる。つまり、「無量大数の無量大数乗の無量大数乗の極乗+1」が「19字以下では表現できない最小
ラッセルのパラドックスについて書く、と大見えを切ったのだがなかなか手に負えない。もう少し足慣らしをしていこうと思う。 一般に自己言及というものがパラドックスの原因となることはよく知られている。その典型的な例が「ベリーのパラドックス」である
横浜のワールド・ポーターズの中にとても繁盛している駄菓子屋がある。その店先に「オリエンタル・即席カレー」を発見。とても懐かしい。半世紀以上前からある、即席カレーのハシリのような商品である。現在の即席カレーはほとんどが固形だがこれは粉末。買い
一般には、言明にまず意味があって、その意味が現実と照合されて真偽が決定されると考えている。しかし、ウィトゲンシュタインは真偽の条件そのものがその言明の命題つまり意味であると考えた。真偽の前に意味が存在すると考えることから言語の混乱が生まれる
「私は嘘しか言わない。」と誰かが言ったとすると、この言葉は嘘か本当か、どちらだろう。答えは「嘘」。一見パラドクス風だが実はそうではない。たぶん、この人は本当のことを言うこともあるのだ。だから「嘘しか言わない」というのは嘘である。ということ
大乗仏教では、あらゆるものは自性をもたない、すなわち空であると説く。自性というのは、他のものと関係なくそのものがそのものであり得るような本質を意味する。ギリシャ哲学でいうところのイデアである。人間は一人々々みな違っているのに、それぞれが人
人間だれしもあの時ああすればよかったというようなことはままある。あの時、好きなあの娘に恋心を打ち明けていたらどうなっただろう? 金1g千円の時に、キログラムバーを買っておけば儲かったのに‥‥等々、人の人生はタラレバに満ちている。その気になれ
人は一般に、現実は理論に従うものと思いがちだが、実はそうではない。まず現実があって、理論はそこから導き出されるのである。理論はいつでも現実を説明するためにのみある。あまり理屈で考えているとそこのところを忘れがちになる。禅の公案に「鐘が鳴る
昨日は話題(知っている人は知っている)のいちょう団地へ行ってきた。なんでも、バインミーというベトナム料理(フランスパンのサンドイッチ)がすごくうまいという話を聞いて、パンが大好きな私はいてもたってもいられず、のこのことやってきたのだ。 い
最近、ブログのアクセス数が増えてきた。一日に訪問者数が400、ページビューが800を超えることが珍しくない。万人受けをするようなことを書いているわけではないのに、無名のアマチュア哲学者のつたない文章をわざわざ読んで下さる方々がいる。私自身は社会
先日の「美は存在者ではない」という記事について、Uさんからいろいろご指摘を頂いたので改めて考えてみました。 どのような現象にもその背後には何らかの「力」が働いていると私たちは考える。不可避的にそう考えるのは、私たちが常に一般化への欲求を持
相撲は国技などと言われているが、最近の若い人たちは相撲など取った経験などない人が多いのではなかろうか。私どもが子供の頃は、空き地で円い線を描いて土俵に見立て相撲を取るということが日常的だった。近頃はほとんどそのような光景は見かけない。競技
「美」については以前も取り上げたことがあるが、もともと日本語にはなかった概念である。柳父明の名著「翻訳語成立事情」によればオランダ語の"Schoonheid"の翻訳語であるという。もともと日本語にそれに相当する語が無かったわけではない。多和田洋子さん
人は言葉の意味にこだわる。自分の持っている語感が絶対だと勘違いしやすいからだ。言葉の厳密な意味を把握するためには、その使用例をことごとく知らねばならないはずだが、現実には、我々は言葉を口にした時点で、すでにその言葉の相貌(アスペクト)が立
約30年くらい前、多くの日系ブラジル人に接する機会に恵まれたことがある。彼らの日本料理に対する感想は等しく「とにかく甘すぎる」ということであった。なんにでも砂糖を入れすぎるというのである。はじめはなんのことを言っているのかがよく分からなか
ミクシィのコメントの中には、自分の好きな音楽について語る人が多いような気がする。クラシック、ジャズ、ロックとそれぞれ分野は違っても、自分の嗜好にある種の崇高性を認めているところに共通性があるようだ。その分野に興味がない人にとってはなんの感
よく意味がわからない。人権蹂躙と言うより、常識を逸脱している。個人の下着の色について言及するということ自体が、わいせつだと感じる私の常識がおかしいのだろうか?下着の色指定など校則見直しへhttps://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=dia
NHKのEテレで「100分de名著」という番組で「善の研究」が取り上げられていたが、その3回目の放送(10月21日放送)のテーマが「純粋経験と実在」であった。そのビデオを見て、いろいろ思いついたことを述べてみたい。 哲学愛好家の中にはとても奇妙