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2019年12月28日11:02

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ハエ取り壺のハエ − 本能のわな

 スーパーの通路で子供が寝っ転がっている。猛烈な勢いで手足をばたつかせながら泣きわめいていた。傍らに立っていた母親が鬼のような形相で「なんであんたはそうなのよっ、なんたらかんたら‥‥」とヒステリックに叱っている。叱られた子供はさらに甲高く「びぇーっ」と泣き、手足を地べたに叩きつける。双方がもう無我夢中である。はたから見れば、たぶん発端は子供のたわいもないおねだりだったのだろうと察しはつく。子どもがしつこくねだらなければ叱られることもなかったし、母親がやんわりとたしなめておればこんなに泣き出すこともなかっただろう。元の原因からすればなにもこのような大騒ぎになるほどのことではなかったはずだ。ところが、今はもうお互いに引っ込みがつかなくなってしまっている。

 私たちはめくるめくほどの長きにわたって自然選択の網の目をくぐり抜けてきたものの子孫である。当然のことだが、その本能は自分が生存すること、自分の子孫が生存し続けることにおいてはかなり洗練されている。だから、われわれの情動というものは我々の生存のための価値観にほぼ直結していると言って間違いはない。しかし、洗練と言っても所詮それは偶然の積み重ねに過ぎない。すべて合理的に出来ているかと言えばそうでもない。今まで生存するに足るだけ合理的でさえあれば事足りたからである。

 子どもが泣くのは親の気を引くためである。なにか欲求が起こるとそれを親にかなえさせるために泣く。本来は欲求の切実さ応じて激しく泣くのが合理的なのだろうが、多少われわれの情動は多分必要以上に利己的に出来ているのだろう。なにがなんでも自分の欲求を満たすために切実さを偽装するようになっている。母親の方も、何でもかでも子供の欲求を受け入れていては身が持たない。そこでより強い言葉で威圧して一挙に黙らせようとする。どちらも、利己的な情動から出ている直接的行為なのでデッドロック状態となってしまうのである。

 「何のために哲学をするのか?」という問いに、ウィトゲンシュタインは「ハエ取り壺のハエに出口を示してやること。」と述べています。(「哲学探究」309節) ハエ取り壺というのはつねに出口が開いているのに、一旦そこに入るとハエは出られなくなってしまう。問題解決の出口はすぐそばにあるのに、私達は見当違いのもがき方をすることがよくある。たぶんわれわれの思考方法や情動には盲点と言うべきものがあるのである。 「ハエ取り壺のハエ」は絶妙な例えだと思う。ウィトゲンシュタインと言う人の生活様式は全然禅的ではないが、その言葉は不思議と禅的様相を帯びている。
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