久し振りに「哲学が好き」コミュの論理について議論しているトピを覗いたら、理論と論理の区別もしないで議論しているので、おせっかいと思いながらコメントを入れてしまった。日常語では、論理と理論は同じような意味合いで使われることが多いが、「哲学」を
有名な脳学者である養老孟子先生が「進化論は科学ではない。反証不可能だからだ。」とどこかで述べているのを知って、驚いたことがある。私にとってダーウィンの進化論は科学の神髄である。これが科学でなかったら科学というものはない、くらいに思っていたし
進化論について語る際に、「高い木の葉っぱを食べるためにキリンの首は長くなった」式の説明がされることがままある。しかし、これではダーウィンの思想は捻じ曲げられてしまう。「〜のために」というのは背後になんらかの意思が働いているかのような表現だが
スティーブン・ジェイ・グールドは世界的な古生物学者でもあるが、素晴らしい科学エッセイの書き手でもある。約30年前くらいから私は彼の大ファンで、彼の著書はほとんど目を通している。私が推薦委員なら、間違いなく彼をノーベル文学賞に推薦した。全世界の
デカルトは懐疑を徹底した結果、とうとう「今自分は夢見ているのではないか」という疑いを払拭することができなかった。確実な基盤がない以上、実在を語るわけにはいかない。西洋哲学は、「考える私」を唯一の足場として観念論を展開するしかなかった。そのよ
マルクス・ガブリエルの「なぜ世界は存在しないのか」をやっと2/3まで読み進んで、彼の言いたいことが分かってきた(ような気がする)。いかなる領野も特定の視点のパースペクティブを帯びているのであるから、すべてのものが中立的に存在する絶対的基盤と
「哲学 Φιλοσοφια」というコミュで、いじめについて議論しているトピックスがある、そのなかで「学校に自動小銃を持った警官を配置」するというような極論が出て、あきれてしまった。不条理を一挙に解決したいという気持ちは分からないでもないが、
前回の日記に対してho-anthroposさんより、「『非言語的な世界の受容』という言葉が指示している事態を、言語なしでは、判断という形式に構成することができない、ということではないか」という意見を頂いた。しかし、認識というものが「言語を通して判断とい
いつも感じるのだが、思い通りにブログ記事が書けたためしがない。書き終わってから、「あれっ、ぼくはこんなことを書こうとしていたんだうか?」といつも思うのだ。そういうことからも「思考は言葉に支配されている」というのはつくづく本当のことだと痛感す
「利己的な遺伝子」という本が一時もてはやされたことがあったが、まるで遺伝子そのものに意志があるかのようなタイトルである。センセーショナルなタイトルだが、たぶん出版社が付けたタイトルであるような気がする。淘汰圧に直接さらされるのは個体であって
慰安婦記事 元記者の請求棄却https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=5369088この記事に対するミクシィメンバーの反応がおかしい。「世界中に向けて謝罪文書くべきだよな。嘘記事なんだからさ。」というようなコメントがばかリ、まるで
「私は手を上げようと意志することはできる。しかし、手を上げようという意志を意志することはできない。」とウィトゲンシュタインは言ったが、これほど深い洞察の言葉もあまりないのではないかと思う。立ちたいときに立ち、座りたいときに座る。束縛されてい
南直哉さんは思想を仏教と仏教以外にまず大別する。それらを区別するためのキーワードが超越である。超越とは我々の経験や認識の範囲を超えるもののことを言う。例えば一神教の神様のようなものである。実存というのは規定するのは難しい。とりあえず、今感じ
トランプ氏、出生地主義廃止の意向強調 「憲法で保障されず」http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=52&from=diary&id=5356510トランプのお爺ちゃんはドイツ移民で、1905年に息子フレッド(トランプの父)を授かった。つまり、出生地主義廃止を120年ほ