もう半世紀も前のことになるが、高校生だった私が禅寺で修行のまねごとをしていた時のことである。あるとき、老師と茶飲み話をしている中で、「『無』ってなんですか?」と訊ねてみた。老師は「究極の主体性じゃ。」と答えて、続けて言った。「と、口で言うの
「一切皆空」と言う言葉を「すべては儚いものである、だから執着してはならない。」というふうに解釈する向きがある。「執着してはならない」というのはその通りだけれど、この現実を儚いとか空しいというふうに解釈してしまうのは如何なものか。「空」という
哲学をやるというような人は大体において頭のいい人が多い。「世界で一番自分が頭が良い」と考えている人も少なくないのではないかと、私は想像している。なぜそんなことが言えるのかと言うと、(まことに恥ずかしいことだが)私自身がそういう人間だったか
ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」は次のような言葉で始まっている。 1. 世界は成立していることがらの総体である 1.1 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。なぜか私たちは、「世界はものの集まりである」と考えがちである。それに
曹洞宗の僧侶である南直哉さんが、仏教とは「死ぬ練習ではないだろうか」というようなことをブログの中で言っている。もっとも彼は(自分の)死については絶対に分かり得ないことを前提として、矛盾しているテーマの中に自分を投げ入れることについて論じてい
私が初めてブログ記事を書いたのは、ちょうど10年前の4月13日である。哲学の勉強を始めたのもちょうどその頃である。https://ameblo.jp/toorisugari-ossan/entry-10241748473.html昔から家族には「三日坊主の哲」と揶揄されていた私が、これほど長い期間