この問題の難しさは、位置というものの絶対的な基準がないことにもあるが、心というものがなにを指すのかがそもそも明確でないことにある。位置というのは物の世界におけることであり、物と心の関わりというものが明確でないかぎり位置も示せないはずである。
先日来、この世界について何かを知るということはどういうことなのだろうと考え続けている。で、結局のところ、この世界の「秘密」を知るというような意味での知り方というものはないのではないか、というところにどうしても落ち着いてしまう。私はもともと、
昨日は「世界はなぜあるのか?」という問題は、あまりにも根源的過ぎるがゆえに疑似問題である、というようなことを考えたのだが、今回は、この問題に劣らず根源的な問題として、「私はなぜ私なのか?」ということをとり上げたい。唯物論者は精神活動もすべて
世の中にはいろいろ難しい問題がある。しかし、どれほど難しい問題であろうと、それがなにを問うているのかがわかれば、答えの形式については分かるものである。「テーブルに置いてあった大福が無くなったのはなぜか?」という問いならば、「食いしん坊の哲が
著名な宇宙物理学者であるペンローズは、一時期三次元空間の論理に反する物体を考えることに熱中したらしい。論理に反するものは想像することさえ不可能なはずだが、不可能に挑戦するのが天才の天才たるゆえんなのだろう。その結果として、ペンローズの三角形
今まで、一日の来訪者数100人台、アクセス数は200PV台だったのが、今週に入ってからいきなり来訪者数200人台、アクセス数は500PVを超えるようになった。昨日はとうとう来訪者数382人、アクセス数は791PVにまでなってしまった。一体何があったのだろう。不思議
先日、カルチャーセンターで講義を受けた時に、規則のパラドックスから論理のア・プリオリ性が撤回される、というような説明を受けたのだが、どうも納得がいかない。規則のパラドックスとはいわゆる数列問題においてのことだが、これは単に、有限な言語表現で
15年くらい前にチリの友人を訪ねて行ったことがある。飛行機がサンチアゴに着く前にキャビンアテンダントが税関の申告書を配ってくれたのだが、外国旅行に慣れていない私は戸惑ってしまった。書類には、南緯xx度以北の海産物はどうのこうのと書かれている。友
前回の日記で私は次のように述べた。【ものを固定して見ることをしない仏教的観点においては「差異」というものはもともと存在しないものである。ものごとに境界を設け比較することによってはじめて「差異」は生まれるが、自然の変化は不断かつ連続的に生じて
「 始めに言葉ありき」という言葉が象徴するように、西洋においては言葉に対する万能感が強い。「思考しえること」=「語りえること」の図式が強固に信じられている。しかし、あるがままに自然を見ようとする仏教的視点から見れば、そのようなロゴス信仰が反
先日テレビを見ていたら、強制収容所の生き残りの人の証言というのがあって、恐ろしい話を聞いてしまった。その人の妹さん(当時6歳)はガス室送りになってしまったらしい。「ガス室で死ぬということがどういうことだか分かりますか? そこでは弱い者が強い
羽田まで送った帰りに、昔住んでいたことのある蒲田に寄ってみようと思い途中下車した。駅から出ようとすると、たくさんの人がこちらに向かってカメラを構えている。振り返って見ると、その理由はすぐ分かった。
哲学を勉強しようというような人は、プロであれアマチュアであれ、たいてい「自分が一番頭が良い」と思っているのではなかろうか? 違っていたら誠に失礼な話だが、私自身がそんな人間であるから、他の人もそうではないかと邪推しているのである。しかし、哲