mixiユーザー(id:1040600)

2008年10月19日19:29

38 view

●うみうし独語(285)/■「泥の河」

■「泥の河」

 ●妻といっしょに家を出た。

  妻は出勤で、私は秋日和のなか
  気分転換に散歩でも・・と思い、
  地下鉄の駅まで、いっしょに降りた。

  ここのところ、
  秋晴れの日が続いている。



 ●長田神社前で下車して、地上に出ると
  すぐ目の前に、「ブックオフ」の店があった。


  本を処分しなければ、と思いつつ
  そのままになっているので、
  どんなところか、店を覗いてみた。


  整然と本やCDが並べられ、
  本棚には著者名や出版社名や文庫本の区別などが書かれた
  仕切りがあり、書店と同じようなのだけれど
  並べられた本を見ていくと、その品揃えは異なる。


  古本屋と新刊本の書店を、足して二で割った
  そんな雰囲気である。



 ●長田神社に向かう鳥居をくぐって
  参道の両側の商店街を見ながら、ぶらぶら歩く。

  新湊川に架かった小さな赤い欄干の橋を渡り
  そのまままっすぐ進めば、神社に行くが
  途中、目がとまった揚げ物屋で「コロッケ」を2個買って、
  川沿いの公園で食べた。


  川の向かいの二階家の窓に、
  干し柿がつるしてあった。
  柿の木が二階までのびており、
  まだ枝に実が残っていた。



 ●志水辰夫の作品を三つ読んで、次に何を読もうかと
  思っている。


  「ブックオフ」でもそれとなく探してみたが、
  見つからなかった。

  そんなこともあろうかと、
  家から宮本輝「螢川・泥の河」を携えてきたのは
  賢明であった。


  長田神社の手前で、ひきかえし
  結構きびしい秋の日差しを避けるように
  喫茶店に入る。





   ・・・・・・




 ●昭和25年から昭和30年くらいに、小学生だった世代には
  「泥の河」は、書かれている時代背景と当時の自分の思い出を
  重ね合わせながら読むことができる。




  「赤目四十八瀧心中未遂」の車谷長吉が、昭和20年生まれで、
  同い年。


  「きのうの空」の志水辰夫は、昭和11年生まれで、私たちよりは
  一回り上。敗戦の年をはさんで小学生時代を送っている。


  「泥の河」の宮本輝は、昭和22年生まれで、私より二つ下であるが、
  でも、志水辰夫や車谷長吉を「兄」とする最後の世代で、
  彼等はみな、昭和20年から30年にかけての敗戦後の日本人の
  暮らしや、生活の情感を、それぞれの年齢で通過している。



 ●「泥の河」の解説を桶谷秀昭が書いている。


   「この小説の舞台は、昭和三十年の大阪の場末である。

    まだ馬車引きが残っており、水上生活者もいた。
    高度成長期がはじまる直前の時代、昭和十年代の生活風俗が
    残っていた最後の時期である」

   
  この小説が書かれたのは、1977年(昭和52年)のことで
  その年の「太宰治賞」を得た。

  
  桶谷が言うように、

   「生活水準が向上して、一億総中流の意識が日本人を蔽った
    昭和50年代のはじめ、人々の感受性から失われたもの、生きることの
    哀しみや、滅びゆく者の姿を、作者は描きとどめて置きたかったと思われる」



 ●淡路の村には、まだ馬蹄屋があり、瓦を馬車が運び、
  馬は道々に馬糞を落としていった。

  神戸の中突堤から元町までは、黒い幌をかけた人力車が
  走っていた。

  東京・両国近くの堅川には、し尿を運ぶ「だるま船」が浮かんでいたし、
  「水上小学校」というのもあったような気がする。

  両国橋の橋のたもとに、大砲の弾が置かれていたような記憶や
  隅田川の花火大会の光景がよみがえる。

  「パンパン」という言葉や、傷痍軍人や、同級生に戦争で父を亡くした子も
  いたことを思い出す。



 ●ここに書かれているのは、私の思い出にも繋がるその当時の日本人の心情である。
  それを、水上生活者の姉弟と友達になった小学校二年生の
  主人公の目を通して描いている。


  作中、主人公の親がやっている大衆食堂に、姉の方の銀子が遊びに来て、
  調理場の米櫃に手をつっこんで、「お米、温くいんやで」と言うくだりがある。


    「お米がいっぱい詰まっている米櫃に手ェ入れて、温くもっとるときが、
     いちばんしあわせや。 ・・・・・うちのお母ちゃん、そない言うてたわ」




  桶谷はこれを引用しながら、次のように書いている。

  「こんな哀切な情景が日本の小説から失われて久しいのは、日本人の生活が
   ゆたかになったからであろうか。
   美徳というべき銀子のつつましい幸福をねがう心は、三度の食事にも事欠く
   貧しさと表裏であろう。

   しかし、近代生活の味を知ってしまった日本人が、銀子の感受性を失って
   しまったとしたら、やはりそれは美徳の喪失にほかならないのである。


   失われた美徳は、いまの日本人が再び貧困に見舞われる事態になったとしても、
   取り戻すことはできないのではなかろうか。
   むしろ貧してさらに浅ましくなる心性が露呈するかもしれない」




    ・・・・・・・








 ●妙法寺に着いて、また喫茶店で「本」を読んだ。

  文庫本で約90ページ。「螢川・泥の河」の「泥の河」を読んでしまった。
  桶谷秀昭の「解説」も読んで、喫茶店を出た。




  桶谷秀昭がこの「解説」を書いたのは、後ろを見ると、
  「平成六年十月」とある。

  「平成バブルの崩壊」は、後年1990年(平成2年)とされているが、
  平成六年(1994年)ころは、ようやく少しずつ人々もそのおかしさに気づきはじめた
  ばかりで、山一証券の倒産は1997年のことである。



  「一億総中流」という懐かしいフレーズを思い出し、そして
  ちらっと、「恐慌」などという文字が並ぶ昨今のニュースも思い出した。






 ●午後3時を回ってなく、少しだけ西に傾いた日差しは
  まだ暑かった。


  公園には、クスノキが葉裏まで光を浴びて、油をたらしたような
  輝きで、葉を残しているサクラは赤く色づいていた。



  いまは、ただ、秋の日射しを一身に感じていたいような気分だった。




0 3

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する