■「泥の河」
●妻といっしょに家を出た。
妻は出勤で、私は秋日和のなか
気分転換に散歩でも・・と思い、
地下鉄の駅まで、いっしょに降りた。
ここのところ、
秋晴れの日が続いている。
●長田神社前で下車して、地上に出ると
すぐ目の前に、「ブックオフ」の店があった。
本を処分しなければ、と思いつつ
そのままになっているので、
どんなところか、店を覗いてみた。
整然と本やCDが並べられ、
本棚には著者名や出版社名や文庫本の区別などが書かれた
仕切りがあり、書店と同じようなのだけれど
並べられた本を見ていくと、その品揃えは異なる。
古本屋と新刊本の書店を、足して二で割った
そんな雰囲気である。
●長田神社に向かう鳥居をくぐって
参道の両側の商店街を見ながら、ぶらぶら歩く。
新湊川に架かった小さな赤い欄干の橋を渡り
そのまままっすぐ進めば、神社に行くが
途中、目がとまった揚げ物屋で「コロッケ」を2個買って、
川沿いの公園で食べた。
川の向かいの二階家の窓に、
干し柿がつるしてあった。
柿の木が二階までのびており、
まだ枝に実が残っていた。
●志水辰夫の作品を三つ読んで、次に何を読もうかと
思っている。
「ブックオフ」でもそれとなく探してみたが、
見つからなかった。
そんなこともあろうかと、
家から宮本輝「螢川・泥の河」を携えてきたのは
賢明であった。
長田神社の手前で、ひきかえし
結構きびしい秋の日差しを避けるように
喫茶店に入る。
・・・・・・
●昭和25年から昭和30年くらいに、小学生だった世代には
「泥の河」は、書かれている時代背景と当時の自分の思い出を
重ね合わせながら読むことができる。
「赤目四十八瀧心中未遂」の車谷長吉が、昭和20年生まれで、
同い年。
「きのうの空」の志水辰夫は、昭和11年生まれで、私たちよりは
一回り上。敗戦の年をはさんで小学生時代を送っている。
「泥の河」の宮本輝は、昭和22年生まれで、私より二つ下であるが、
でも、志水辰夫や車谷長吉を「兄」とする最後の世代で、
彼等はみな、昭和20年から30年にかけての敗戦後の日本人の
暮らしや、生活の情感を、それぞれの年齢で通過している。
●「泥の河」の解説を桶谷秀昭が書いている。
「この小説の舞台は、昭和三十年の大阪の場末である。
まだ馬車引きが残っており、水上生活者もいた。
高度成長期がはじまる直前の時代、昭和十年代の生活風俗が
残っていた最後の時期である」
この小説が書かれたのは、1977年(昭和52年)のことで
その年の「太宰治賞」を得た。
桶谷が言うように、
「生活水準が向上して、一億総中流の意識が日本人を蔽った
昭和50年代のはじめ、人々の感受性から失われたもの、生きることの
哀しみや、滅びゆく者の姿を、作者は描きとどめて置きたかったと思われる」
●淡路の村には、まだ馬蹄屋があり、瓦を馬車が運び、
馬は道々に馬糞を落としていった。
神戸の中突堤から元町までは、黒い幌をかけた人力車が
走っていた。
東京・両国近くの堅川には、し尿を運ぶ「だるま船」が浮かんでいたし、
「水上小学校」というのもあったような気がする。
両国橋の橋のたもとに、大砲の弾が置かれていたような記憶や
隅田川の花火大会の光景がよみがえる。
「パンパン」という言葉や、傷痍軍人や、同級生に戦争で父を亡くした子も
いたことを思い出す。
●ここに書かれているのは、私の思い出にも繋がるその当時の日本人の心情である。
それを、水上生活者の姉弟と友達になった小学校二年生の
主人公の目を通して描いている。
作中、主人公の親がやっている大衆食堂に、姉の方の銀子が遊びに来て、
調理場の米櫃に手をつっこんで、「お米、温くいんやで」と言うくだりがある。
「お米がいっぱい詰まっている米櫃に手ェ入れて、温くもっとるときが、
いちばんしあわせや。 ・・・・・うちのお母ちゃん、そない言うてたわ」
桶谷はこれを引用しながら、次のように書いている。
「こんな哀切な情景が日本の小説から失われて久しいのは、日本人の生活が
ゆたかになったからであろうか。
美徳というべき銀子のつつましい幸福をねがう心は、三度の食事にも事欠く
貧しさと表裏であろう。
しかし、近代生活の味を知ってしまった日本人が、銀子の感受性を失って
しまったとしたら、やはりそれは美徳の喪失にほかならないのである。
失われた美徳は、いまの日本人が再び貧困に見舞われる事態になったとしても、
取り戻すことはできないのではなかろうか。
むしろ貧してさらに浅ましくなる心性が露呈するかもしれない」
・・・・・・・
●妙法寺に着いて、また喫茶店で「本」を読んだ。
文庫本で約90ページ。「螢川・泥の河」の「泥の河」を読んでしまった。
桶谷秀昭の「解説」も読んで、喫茶店を出た。
桶谷秀昭がこの「解説」を書いたのは、後ろを見ると、
「平成六年十月」とある。
「平成バブルの崩壊」は、後年1990年(平成2年)とされているが、
平成六年(1994年)ころは、ようやく少しずつ人々もそのおかしさに気づきはじめた
ばかりで、山一証券の倒産は1997年のことである。
「一億総中流」という懐かしいフレーズを思い出し、そして
ちらっと、「恐慌」などという文字が並ぶ昨今のニュースも思い出した。
●午後3時を回ってなく、少しだけ西に傾いた日差しは
まだ暑かった。
公園には、クスノキが葉裏まで光を浴びて、油をたらしたような
輝きで、葉を残しているサクラは赤く色づいていた。
いまは、ただ、秋の日射しを一身に感じていたいような気分だった。
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