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2006年03月03日03:31

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●寄り道ついで (65)/■余談 (2)

■国民の「素養」

 ・そんな「二著」が下敷きにあって、「教養」あるいは「素養」
  ということが気になっていた。そんな折に出会ったのが、この
  加藤徹「漢文の素養」(光文社新書)だった。


 ・で、任にもないこと、柄にもないこと、ではあるが、自分のことで
  考えてみる。「自分をつくる」ということを考えてみた。



 ・いっそ大上段に構えてみる。
  いま必要とされる「現代の素養」「国民の素養」とは何かと、
  問うてみる。

  「教養」「素養」ともに、「養う」の「養」という字が入っている。
  これは、ドイツ語の「Bildung」の「bilden」(英語ならば
  「bilding」「bild」)に「つくる」という意味合いがあっての
  ことだろう。



 ・「教養を明確に定義するのは難しい。各国の事情や時代の変化に
  よって、あるいは、その言葉を使う者の思想や希望、いや、
  むしろ、思惑や扇動まで含んで、多様な意味を負わせることが
  できるのが、<教養>という言葉だからである」と、高田里惠子は
  書いている。

  その通りだと思う。


  そこへ、加藤徹「漢文の素養」の本では、漢字・漢文が日本文化を
  つくり、日本人の「教養・素養」の根源・大本となっていることを
  鮮明に打ち出していた。
  それが、私には「新鮮」で「さわやか」に思えた。



 ・「教養・素養」を狭く、「本」や「ものごと」に関する知識として
  捉えるのではなく、「ことば」「文字」の源にさかのぼって
  教養・素養を問うているところが新鮮だった。



  立花隆は、「現代の教養は、バイオテクノロジーと英語とメディア・
  リテラシー」だと喧伝したそうだが、「読み・書き・そろばん」の
  基盤を支えるものこそが、ほんとうの「生産材」のような気がする。



 ・それで、

   人間の「教養(素養)」とは何だろうか。

  などという発問をしてみた。



  また、

   ある人が、「あれネー」と言えば、それを受けて「そう、
   あれネー」と対応できる、その「了解項」としての「あれ」こそが
   「教養(素養)」というものの本質ではないかと思う。


   ある「A」というものが「A」であるために、または、
   「A」となるために最低限必要とされるか、あるいは一般に
   これだけは必須というような「共通の知」、これが「教養」であり、
   「素養」である。

  というような定義もしてみた。



 ・「あれ」に、「バイオテクノロジー」「英語」「メディア・
  リテラシー」を、それぞれ代入してもいい。

  あるいは、「A」に、「紳士」や「ヤクザ」や「社会人」「国際人」
  を入れてもいい。




 ・そして、新しい「知」は、新しい「ことば」を必要とする。
  そのとき、「日本語」はどうなるか。



  「昔の植民地では、しばしば三層構造の言語文化が見られた。
  上流知識階級は高位言語としての純正英語(ないしフランス語)を
  使い、中流実務家は現地化した英語を使い、下層階級は民族の
  固有語を喋った」(「漢文の素養」から)

  そして、三層構造は国民・国語・国軍の三点セットからなる
  近代の「国民国家」の成立まで続く。



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