■宣伝文
・加藤徹「漢文の素養」に触発されて、また、つまらぬことを
書き始めたように思う。
タイトルからして、「教養」「漢字」などと大げさである。
・まず、「教養」であるが、
高田里惠子「グロテスクな教養」(ちくま新書)という本がある。
また、村上陽一郎の「やりなおし教養講座」(NTT出版)と
いう本もあつた。
・「教養」というと知識をひけらかすようなイメージがあり、
「高等教育を受けたかどうか」「難しい本をたくさん読んだかどうか」
などを、世間では「教養」のあるなしに関係する事柄のように
思ってきた。
それは「教養主義」のことで、「教養」とはそんなものではない、
といってみたところで、大なり小なり「教養」には、そんな
胡散臭さがつきまとっている。
村上陽一郎は、本を読んでる、ものを知っている、ということではなく、
「自分の規矩(きく)は決して崩さず、しかしそれで他人を
あげつらうことも、裁くこともなく、声高な主張から一切離れ、
(中略)ただ静かに穏やかに自分を生きること、世間を蔑んで
孤高を誇るのではなく、世間に埋もれながら自分を高く持すること、
それを可能にしてくれるのが『教養』ではないか、と私は考えて
いるのです」と前掲書で述べているが、それだって弁解に聞こえる。
(注)
規矩(きく):コンパスとか、かねじゃくの意。
人の行為の基準となるもの。
・一方、高田里惠子は近親憎悪的に「教養とは何か」を問うている。
「教養にはどんな効用があるのか」―。
大正教養主義から80年代のニューアカデミー、そして、
現在の「教養崩壊」まで、えんえんと生産・批判・消費され続ける
「教養言説」を、その底に潜む悲喜劇的な欲望や、出版社との
共犯関係・女性や階級とのかかわりなど、さまざまな側面から
映しだしている。それは、知的マゾヒズムを刺激しつつ、
一風変わった教養主義の復権を目指す、ちょっと意地悪な
「教養論」論となっている。
・以上は、上記二冊の本にあった文章に、少し手を加えた宣伝文
である。
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