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2024年02月08日23:49

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Reライフ文学賞落ちましたよ①

『白く、木蓮の花』----前編----　　　

「木蓮が咲いたな。」
　日焼けして皺だらけの顔は穏やかで、目を合わせずぶっきらぼうだった頃の松尾を、私は懐かしく思い出している。
「白木蓮の花の、温もりのある白には癒されるよ。」
　白い花びらが一枚落ちた。燻らせる白い煙の筋が春の風に散る。彼の瞳には向こうの高嶺の景色が映っているのだろう。
「煙草、旨いか？」
　松尾は無表情のまま。
「別に旨かなんかねえよ。」
「じゃあ、何でまだ吸ってんだよ。」
　松尾は微笑んだのか。
「さあ、なんでだろな。」
　今日も、和子さん、寿美江さん、そして雪絵さんが揃っている。
　私は、過ぎた日のハイキングを思い出し、口元が綻んだ。それはまさにゴールデンウィークの出来事だった。

　私は、長年勤めた会社を六十五歳で退職して直ぐ、山村の中古の一軒家を購入し、引越して来た。林業や農業で生計を立てる人が多いこの村では、相互の家が離れていてコミュニケーションが取りづらい。そんなこともあって、道路で軽トラックがすれ違う際に双方が停まり、交通を遮断するように、そのまま長話に突入することもよくある。
　その日私は、荒れ放題の畑を耕すため、朝から農具を買いに、細い農道を通って町へと向かっていた。家から五百メートルほど行くと、早速、車上・井戸端会議に出くわした。対向車の女性が直ぐにこちらに気づき、軽トラックをゆっくりとこちらへ発進させたが、私を見てこの村の新入りだと分かると、派手なリアクションをして軽トラックを停車させた。
「まあ、おたく、つい最近越して来られた方でしょ？」
　女性はそう言いながら素早く車から降りると、
「色白で、お洒落な眼鏡を掛けて、ハンサムでらっしゃるから、直ぐに分かりましたあ……」というリップサービスに続いて、
「この辺には皺くちゃなお猿さんみたいな男しか居ないもんだから……」と、おばさんオチに行き着き、自分でウケた後、
「山内和子と申します」とご丁寧に自己紹介を始めたので、私も車上からというわけにはいかずに降りて挨拶をしていると、前の車でドアミラー越しに様子を窺っていた女性も、この村の新入りに気づいて車を降り、私の意に反して三人の井戸端会議が勃発してしまった。
「寿美江さん、ちょっとハンサムな方よお、ねえ。」と和子さん。
「あらあ、映画俳優みたいな方でえ、はじめましてえ、岸本寿美江と申しますう……」と先ほどと同じような展開を見せながら、和子さんと寿美江さんの二人は新入りのヴェールを剥がしにかかった。
　どちらから？何年生まれ？奥様は？どんなお仕事を？
　彼女達のステレオ攻撃に私が観念して一つ一つ丁寧に答えて行くと、
「ああ、もう、じゃあ絶対、山鳩会に入って下さいね。今度の日曜の朝十時、是非公民館にいらっしゃって！」
「ほんと、貴方みたいな都会の方は山鳩会で大モテよ。」と私を褒めそやし、
「」寿美江さん、抜け駆けしちゃダメよ。」と、やはりおばさんオチで大笑い。私は乾いた笑い声でやり過ごしていた。そこへ、後方から軽トラックが近づいて、クラクションが数度鳴らされた。
「通行妨害しとるのはどこのドイツ人か！」
　男が大声で怒鳴ったので驚き、「ドイツ人」という言葉でどう対応して良いか分からなくなったが、男が一瞬微かに笑顔を見せたので、私も笑顔で返した。
「Guten tag.」
　私が片言のドイツ語で挨拶すると、彼は空かさず早口のドイツ語で、
「Nein, das glaube ich nicht. Guten Morgen.」と返して来た。
　私は自分の間違いに気づいて、
「お恥ずかしい、まだ朝ですね、間違えました。新入りの吉月です。」と男に握手を求めた。
「ああ、どうも。あんたの隣の変人で図々しい松尾だ。俺が死ぬまでの短い間、ご近所づきあい適当に頼む。」
　ゴツゴツした力強い手だった。松尾は、私が今まで会ったことのないタイプの変わり者で、村の人間からは少々疎ましがられるところがあったが、そんな予測不能な彼に私は惹かれた。
「この人、ほんと変人だから伝染らないように気をつけて下さいね。」
　和子さんは渋い顔を見せて言った。
「いやあ、今握手したから伝染りましたよ。わああ。」
　私が両手を開いて飛びかかる振りをすると、二人は叫び声を上げて逃げ、
「変人が伝染っちゃった！」と言って大笑いした。
「なんだ、俺なんかよりよっぽど変人じゃねえか。おかしな奴が越して来たもんだ。」
　松尾は目が合うと直ぐに逸らすクセがあったが、彼とは間もなく親友と呼べる関係になり、そのあと、農具の購入につきあってくれて、庭づくりについて彼に色々と教わった。

　日曜の朝、山鳩会に参加するため、隣家の松尾宅（と言っても五十メートルは離れている）へ十時前に行ってみると、松尾はまだ行かなくていいと言う。
「どうせ山鳩会の連中、あんたの歓迎会の用意でもしてんだろう。三十分だけ引き止めろと会長から指令が下った。とりあえず上がれよ。」
　私は言われるままに靴を脱ぎ、部屋に案内された。襖を開けて入るとそこは和室ではなく、洋風のシックな書斎で、松尾の初対面のイメージとは随分とかけ離れた部屋の雰囲気に面食らってしまった。
「もう来る頃だろうと思ってコーヒー淹れといた。砂糖とか余計なもん要るか？」
「あ、いや、ブラックがいいよ。」
　黒い革のソファーに向かい合って腰を下ろし、私がコーヒーカップを口元に持って行きながら彼を見ると、彼は視線を合わせて直ぐに逸らし、立ち上がって落ち着かない様子になった。私はコーヒーをすすりながら部屋を見渡すと、殆どの壁は書棚で埋められ、本がビッシリと綺麗に並べられていた。
「本は読むか？」と彼は棚の方を向いたまま言った。
「それが、私は読むのが遅くてね、五十年くらいは小説を読んでない。」
「そうか。趣味とかあるのか？」
　落ち着かないのか、彼は私との共通点を急いで探しているように思えた。
「小説を書いてる。」
　松尾は驚いて私を凝視した。
「は？読めない奴が書く小説って、結局読めないんじゃないか？」
「グサっ！く、苦しい。」
　私が冗談で胸を押さえる仕草をすると、彼はソファーに腰掛けながら言った。
「あ、ごめん、俺、こんなだから嫌われるんだよな。実を言うと、家に友人が来たのは初めてでさ。って言っても元々友人はいないが、人と話するのが苦手で……喋り出したら止まらないんだがな。」
　彼は目を逸らすのを忘れている。
「気にしないでくれよ、その方が君と居て心地いい。」
　彼は急ににやけて目を逸らした。
「おうおう、期待されても俺はその気はないぞ。」
「私だって無いさ。ただ、松尾という友に出会えて、この村に来て良かったなって思う。」
　私に向けられた彼の目が涙ぐみそうになっていた。
「なるほど、小説を読めなくったって感動する小説は書けるってことだな、術中にハマっちまったぜ。しかし、よくそんな台詞言えるなあ。」
「元々営業マンだからね。」
「じゃあ、気づいたら俺、何か買わされてるかも。……しかし、俺はクサい台詞は無理だね、だからこの歳までほんの少しも女っ気無いし、あん、これからも無いな。」
　松尾の視線がコーヒーカップに落ちた。
「よっしゃ！女友達作ろうぜ。」
　私の弾む言葉に、彼はゆっくり驚いて見せた。
「はあ？」
「俺は今から自分の事を俺と言い、君のことを松尾と呼ぶ。何故かって言うと、俺と松尾はもう無二の親友だからだ。親友だから、松尾が俺にぶっきらぼうに言うように、俺も松尾にガンガン関わってやる。ほうっ！面白くなって来たぞ！」
　私が親友宣言を述べている間、彼は静止画像になって瞬き一つしなかった。
「はあ？」
　同じように彼は繰り返した後、一呼吸おいて笑い出した。
「訳わかんねえ奴だなあ、やっぱりあんた、とんでもなく変わってるぜ。」
　私は体を前に乗り出して言う。
「で、松尾、どんな女性が好みだ？若い女、なんて言うなよ。」
「いやあ、……」
　また彼が立ち上がったところで、部屋の隅の天井から突然、放送用の鉄琴の音が鳴り出し、続いて男の声が聴こえてきた。
〈フッ、フッ、ええ、山鳩会からお知らせ致します……〉
「なんだ？」
　私は上を向いて耳を澄ませた。
「町内放送だ。来いって事だろ。」
〈山鳩会に参加される方は、公民館へどうぞお越しください〉
　そしてまた鉄琴が鳴り、放送が終了した。
「ほらな。どうせ酒は出ねえから軽トラで行こう。」
　放送のせいで松尾の好みを聞きそびれてしまった。

　公民館の駐車場に着くと、軽トラックや古めかしいセダンばかりが三十台ほど停まっていた。
「俺もハイブリッド売って軽トラにしようかなあ。」
　私が何気なく呟くと、松尾はすぐに反応した。
「勿体ねえだろう、ドライブに使えるじゃねえか。軽トラなら俺がいつでも貸してやるよ。」
「お！いいねえ、同年代の独身ギャル連れて行くか。」
　軽トラを停めて二人は降り、公民館の玄関に向かいながら彼が言う。
「同年代をギャルって言うのか？言語能力崩壊してないか？」
　私は軽トラの薄っぺらいドアを勢いよく閉めて、
「ギャルでしょ。で、俺たちはヤングだ。いひひ。鍵は掛けなくていいのか？」
　彼は後ろ向きのまま手をひらひらさせて、
「ああ、閉めない方がいい。今どきヤングもねえな。」
「閉めない方がいいって？え？どうして？」
　松尾は振り返って早口で喋り始めた。
「つまりだなあ、これは、〈モザイクによる不特定化効果〉と〈みんなで渡れば怖くない理論〉とに基づいた、古来から脈々と受け継がれている、村民の暗黙の盗難被害防止作戦だ。概要はこうだ、鍵を掛ける習慣がこの村で一般化すれば、鍵を掛けていない車が即時に被害にあう。掛けているか掛けていないかは、ドアレバーを引いてみれば直ぐに分かるからな。逆にお前の車のように高価な車だと狙われ安く、いいか、ここが重要だ、鍵が掛かっていたとしても、ドアを壊して中を確認する。つまり、金目の物を置いていなくても被害が出る。だからみんな軽トラやボロセダンしか所有していない。また、事実、全ての車に鍵を掛けていなければ、全ての車を確認するまでにかなりの時間が掛かり、その間、車上荒らしをしていることに気づかれる確率が高くなる。もちろん、金目の物など誰も車には置かない。被害も無い。〈掛けない・置かない・盗られない〉で村人安泰、な。」
　松尾の話が終わったところで、彼の後ろから甲高い声がかかる。
「松尾さん、頭良いんだか悪いんだか、とにかくみんな吉月さん待ってるんだから早く中に入りなさいよ。ほら早く。」
　和子さんが松尾を連行するように腕組みして公民館に連れて行く。松尾は「手を離せ」と言っているが彼女は聞かずにべったり引っついて離さない。私は厚化粧・よそ行き服の嬉し恥ずかし寿美江さんにエスコートされて公民館に入った。

　中に入っても前を歩く二人のバトルは続く。
「だから離せって、セクハラ女！」
「何言ってんのよ、今までさんざんパワハラしといて！」
　和子さんは少々笑顔混じりで言葉を返した。
「え？俺、パワハラしたか？いつ？」
「そんなに真面目に返されると困っちゃうわね、いいのよ、アンタは態度がデカイのがアンタらしいから。」
「なんだよそれ、じゃあ、俺の腕をその胸に押し当てる逆セクハラをやめろ！」
　彼女は飛び退いて言う。
「いやん、スケベ！」
「なーにが……」
「はいはい、仲良しなのは十分すぎるくらい分かりましたからとりあえずお席へどうぞ。」
　白髪頭の品の良い男が会場の入口の所で二人の間に入った。放送の声の主だ。
「吉月さんですね、ようこそいらっしゃいました。私は山鳩会、会長をやっております、佐倉と申します。本日はどうぞ楽しんでお過ごしください。」
「ありがとうございます、本日は楽しみにしておりました、どうぞよろしくお願い致します。」
　挨拶を済ませて中へ入ると、ナフタリンと化粧品の匂いに混じって弁当がほのかに匂っていて、正面に張られた横断幕には〈吉月さん大歓迎会〉と達筆で書かれてあった。入り口近くで井戸端会議をしていた女性陣は、私が来たことを知ると、こちらに歩み寄り、色白だの、姿勢が良いだのと、出来るだけ褒めるよう教育されているかのように私を褒め続けるので、逆に大声で全て否定したい衝動に駆られた。男性陣はというと、大抵椅子に腰掛け、新入りがどんな男か見定めるかのように腕を組んで遠目に見物していた。
「おーい、こっちだ！」
　松尾のドラ声が響いて、部屋中の人々が声の主に注目した。「どうもどうも」と身を屈めながら私が部屋を突っ切って舞台の前まで行き着くと、四人掛けのテーブルの上に、松尾、山内、岸本、吉月とご丁寧に立札まで置かれてあった。私達は山鳩会に仲良し四人組としてプロデュースされているようだ。案の定酒は無いようだ。
〈はい、それでは皆さん、本日の主役がいらっしゃいましたので、予定通り歓迎会を始めます。吉月さん、山鳩会へようこそ……〉
　会長の手短な挨拶で始まり、他の面倒な挨拶や祝辞は割愛、出たがりの会員が舞台で歌ったり踊ったり、案外上手い楽器演奏、漫談まであって、会員はそれに聴き入ったり、お茶のペットボトル片手に挨拶回りや雑談をしながら三z時間あまりを過ごした。
「そもそもなんでこの四人が同じテーブルなんだよ、山内お嬢が裏工作しただろ？ネタは上がってんだい。」
「よく分かったわね、でも四人とも六十五歳だし丁度いいんじゃない？で、何？私達じゃ嫌なの？」
　松尾と和子さんの言い合いが再開する。
「嫌、って言ったら、あんた泣くだろ？だから許してやるよ。」
「何それ、もう、いいわよ、私達、吉月さんとだけ仲良くするから、ねー。」
　少女時代の記憶をなぞっているかのように和子さんは楽しんでいた。寿美江さんはというと、猫を被っているのか、元々口数が少ないのか、松尾と和子さんのやりとりを見るだけで幸せといった風で、彼女なりに楽しそうではあった。私は雑多な雰囲気が苦手で、子供の頃から祭りに誘われても、直ぐに承知することはなかった。誰よりもはにかみ屋で無口だった筈が、図らずも営業マンになってしまったことで社交的になった。しかし、三つ子の魂百まで、こんな集まりの席では萎縮するのか、幼少期に戻って殆ど喋らない。その日も、誰かに挨拶にいくことはせずに同席の二人のじゃれ合いを観戦していた。しかし、私が寿美江さんに話かけないのも失礼と思い、彼女のそばに椅子を移して、本人から逸らした軽い質問から始めたつもりだった。
「松尾と和子さんって前からこんなに仲が良いんですか？」
　ところが返って来た言葉は内緒話モードだった。
「これにはちょっとした……」
「え？……」
　俄然、話が面白い方に進みそうで、自分の顔が二人から見えないように肩肘をついて彼女の声に集中した。
「実は……いや、やっぱり……」
「ちょっとちょっと、なにそれ、一頁目を開いちゃったんだから、話してよ、仲良しなんだから。」
　私が笑いながら話すと、彼女は眉を寄せて訊いてきた。
「仲良し？」
　その表情は案外可愛い。
「そりゃだって、仲良し四人組だからここに集められたんでしょーう。山鳩会プロデュースYBK48のセンター四人だよ。」
　何故か舌のノリは上々だった。
「何のことか分からないけど、なんだか嬉しい！」
　寿美江さんにはちょっと難し過ぎたようだ。
「ね、で、〈実は〉の後は？」
「実は……んんー、内緒よ。」
　やっぱり彼女の表情は可愛い。
「うんうん。」
　私も素敵な表情をしなければと思った。
「あのね、二人は……いやーん、じっと見られると恥ずかしいー。」
　私は顔を天井に向けて言った。
「oh，no！分かった、上向いてるからどうぞ。」
「あん？なにが恥ずかしいんだ？セクハラか？」
　松尾が話に割って入ってきた。
「セクハラじゃないわよ。中学の時の事を思い出してたからちょっと恥ずかしくなったのよお。」
　寿美江さんは両手で頬を隠して言った。そして私たちが何を話していたか感づいた和子さんが口を開いた。
「ああー、もしかしたら私たちのことでしょう、中学の時、一回デートしたことがあるから。そうでしょう？」
「まだ話してないよ。墓穴を掘ったわね。」
　寿美江さんが笑う。
「いや、あのね……」
　和子さんは一度だけ俯いた後、顔を上げ微笑むと、私に話し始めた。
「……そうなのよ、大昔の話ね。この人、顔はジャガイモだったけど他の男の子よりちょっと優しかった。だからあたしとんでもない勘違いをしてラブレターを書いて渡したの。馬鹿よねー。私って今もそうだけど、無口なはにかみ屋さんだったし、他の男の子はみーんな寿美江ちゃんにぞっこんだったから。」
　松尾は手を上げ、それから立ち上がって言った。
「異議あり！裁判長、事実に反する発言っばかりです！」
「松尾検事、具体的にどうだと言うのかね？」
　私も戯れに乗っかる。
「はい、私の顔がジャガイモなら体は茎と葉っぱで、私は下半身を地上の公衆に晒し続けた大馬鹿者ということになります。さらに、無口とは如何に。顔の下半分を占めるほどに開かれる口に紅まで付けて喋り倒しておりますから、これは有口な鼻噛み屋さんが適切な言葉ではないかと思われます。最後に、寿美江ちゃんにぞっこんな人は、私が知る限り三人ほどで、みんなというには語弊がありすぎてあっかんべーであります。」
「裁判長、裁判長！」
　松尾と山内さんが大声でやり合っているものだから周りに人集りができ、笑ったり手を叩いて楽しんだ。
「はい、山内弁護人。えー、傍聴人は静粛に願います。」
　私の言葉に傍聴人達はまた手を叩いて笑った。
「いやん、なんだか恥ずかしくなってきちゃった。」
　彼女がそう言うと松尾は手を上げた。
「では裁判長、判決を願います。」
「それでは判決を言い渡す。喧嘩両成敗、四人ハイキングの刑に処す。」
　女性二人は目を輝かせた。
「いやん、カッコいい！吉月さん。」と和子さん。
「わあ、ハイキング？何十年ぶりかしらあ。」と寿美江さん。そして傍聴人の女性が羨ましそうに言った。
「良いなあ、私も行きたあい。」
　彼女達はすかさず応える。
「雪絵さん、あなたも同級生なんだから一緒に行きましょう！吉月さんの車、普通車でしょ？五人乗れるわよね。」
「五人乗りです、じゃあ決まりですね。雪絵さんの立会いのもとにハイキングの刑を執行。期日は打ち合わせにより決定するものとする。ではこれにて閉廷。」
　コンコンと私がテーブルをノックすると、周りに集まっていた人々から拍手と歓声が沸き起こった。ふと、松尾が席に居ないことに気づいたが、トイレにでも立ったのだろうくらいにしか思っていなかった。テーブルの周りの人集りがなくなる頃に彼は戻って来たからだ。
「ハイキング、一週間後に決まったぞ。松尾も大丈夫だよな？」
　私が訊くと、彼は虚ろな目を泳がせて、いい加減な返事をした。
「ん？あ、ああ……」
　彼の心理を読むのは苦労する。自他共に認める変わり者だから。それから彼は少々落ち着かない風で、何度もトイレに立つようになった。
〈本日は楽しい時をお過ごし頂けましたでしょうか、それでは、吉月さんに今一度歓迎の拍手をお願いします。〉
　会長がそう言うと、私は拍手を浴びながら、立ち上がって礼を言った。そして歓迎会は閉じられた。

　帰り道の松尾は無口だった。
「何でもない。」
　彼は微笑んだが、それは、たった数日間の交友であったにしても殊更に不可解なものであり、彼の意識の中で何かしら重大な事件が起きていることは明らかだった。これ以上私が何か詮索をするなら、彼が私の親友の位置から宇宙空間へと旅立って行くようにさえ感じ、私の家の前で停車した際に「ありがとう、じゃあまた。」と笑顔で降車するだけで精一杯だった。
　私は家に帰ってからも松尾の事が気になった。彼が落ち着かない様子になったのはどの時点かを思い出そうとしていた。私がハイキングを勝手に決めた事が気に入らなかったのか、しかし、彼は和子さんの喜ぶ顔を見て笑っていた筈。雪絵さんの同行を受け入れた時、彼はその前後にトイレに立っていた。その事が引き金になっているのだろうかと推測した。
　夜、私のスマホが鳴った。画面には松尾の文字。電話に出ると、松尾がいつものぶっきらぼうな調子で言った。
〈ああ、明日、暇か？あのう、じゃあ明日の朝そっちに行く。じゃあな。〉
　それだけだった。しかし私にとってはささやかに嬉しい進展となった。何か気になる事があると、私は一人問答を始め、懸命に答えを弾き出そうとするが、彼の〈そっちに行く〉の一言でそれが処分保留になったからだ。
「オッケー。」
　そう言って切った後、その日は早めに床についた。

　チャイムが鳴った。ぼんやりとしていると、もう一度チャイムが鳴って、今日、松尾がうちに来る事を思い出し、慌てて布団を剥いで大声を出した。
「はーい、ちょっと待ってくれ！」
　そのまま玄関まで急ぎ、鍵を外してドアを開けると松尾が立っていた。
「ああ、寝坊した。すまん。」
　私が目をこすりながら言うと、松尾は不思議そうに言った。
「あ、起こしたか？ごめん、やっぱり早すぎたな。しかし、あんた玄関の鍵閉めてんだな。」
「普通、夜寝る時閉めないか？……ああ、なんとか理論な、はは。」
「ちょっと早いかな、と思ったんだけどよ、なんかそわそわしてなあ。」
　彼はすまなそうに入ってきて、
「実は、あんたにどうしても読んでほしい物があって……」と左手に持ったノートを指差した。
「まあ、上がれよ。」
　彼を居間に通してソファーに座ってもらい、私は電気ポットの再沸騰ボタンを押した。
「これ、」
　松尾は先ほどのノートを開いて指差した。
「あん？百人一首か？これ、松尾が書いたのか？達筆なんだなあ。」
「いや、百人一首じゃない。俺の創作だ。」
「ほう……」
　ハードカバーの無地のノートに短歌が一首書かれていた。

後編へ続く
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