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2023年07月06日22:03

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ストロング小林さん追悼(435)

1月25日、東京・京王プラザホテルで猪木と「虚業家」を自称するプロモーション、康芳夫が共同で記者会見を行い、猪木vsアミン大統領という仰天の一戦が一度“正式発表”されました。

猪木の格闘技世界一決定戦の中には、1976年に行われたボクシング世界ヘビー級王者モハメド・アリとの格闘技世界一決定戦のように良い意味で歴史に残っている試合もあれば、もし実現していたら、悪い意味で歴史に名を残してしまっていたのではないかと思われる試合も猪木にはある。その代表的な例がアリ戦から3年後、79年に実現寸前までいったとされるウガンダのアミン大統領との一戦ではないでしょうか。

ウガンダ共和国の現職大統領だったイディ・アミンは、71年に軍事クーデターで権力を掌握後、軍事独裁政権を樹立。反対勢力を次々と粛清し、30万人とも40万人とも言われる国民の大量虐殺を行ったことから「ブラックヒトラー」「アフリカで最も血にまみれた独裁者」と称され、世界的に非難される超曰く付きの人物だった。それは「虐殺した政敵の肉を食べた」という真偽不明の噂が立ち「食人大統領」という異名がつくほどです。

そんなアミン大統領とアントニオ猪木を対戦させようと動いたのが、康芳夫。1960年代から70年代にかけて、テレビ局とタイアップして次々と奇怪な企画を実現させてきた、昭和の名物興行師、プロデューサーでした。

康はもともと72年に日本武道館で行われたモハメド・アリvsマック・フォスターを実現させ、猪木vsアリのコーディネートにも関わった人物だが、その一方で、謎の類人猿オリバーくん来日や石原慎太郎を隊長とした国際ネッシー探検隊を組織。さらにハイチで野生の虎と空手家の闘いを実現させようとするなどキテレツなプロデュースも目立ち、その究極のイロモノ企画がアントニオ猪木vs食人大統領アミンでした。

猪木は1998年に出版した『猪木寛至自伝(のちに『アントニオ猪木自伝』と改題して文庫化)』(新潮社)で、アミン大統領との一件をこう振り返っています。

「皆冗談だと思っていただろうが、あれは康芳夫という呼び屋が持ってきた話で、かなり具体化したのだ。その頃のアミンは大変な悪役で、今で言えば、イラクのフセイン大統領のような人物だ。アミンは少なくとも八万人以上を虐殺している独裁者だった。政敵を殺してその肉を食った“人食い大統領”としても悪名高かった。元ボクサーで、軍隊のチャンピオンだったという経歴も持っていまず。

当時のウガンダは大変な財政難だったから、起死回生のイベントで国を立て直そうという、あれは国家的プロジェクトだったのである。特別レフェリーとしてモハメド・アリの参加も決まった」

発表された主な内容は、「1979年6月10日、ウガンダの首都カンバラにある30,000人収容の国立競技場で開催」「レフェリーはモハメド・アリ」「試合に先駆けて調印式を2月16日、現地カンバラで猪木とアミン大統領、レフェリーのアリ、プロデューサーの康同席のもと行う」「総費用は約30億円」「試合はアメリカのNBCネットワークを通じ、北朝鮮以外の全世界に放送される」というものです。

この記者会見にはスポーツ紙やプロレス専門誌だけでなく、一般紙や一般週刊誌、在京のAP、UPIなどの外国通信社も含め約50人、30社以上の報道陣が集まったため、「猪木vsアミン決定」は外電で海外にも配信されまし。

なお、試合のギャランティに関しては、レフェリーのアリが100万ドル(当時の相場で約2億4,000万円)、猪木がその半分の50万ドル。アミン大統領は公人のためノーギャラ。ただし、純利益の半分にあたる約15億円をウガンダの国家収入とするということまで決まっていたという。

あまりにも荒唐無稽、世界規模のスケールを持った壮大なホラ話としか思えないこの一戦が、なぜ実現に向かっていたのか。

プロデューサーの康芳夫がのちに語ったことによると、もともとボクシングの東アフリカ・ヘビー級王者でありムスリム(イスラム教徒)でもあったアミン大統領は、同じ黒人でムスリムの英雄であるアリを尊敬しており、アリが仲介した話だったため快諾したとのこと。 一方、猪木のほうはアミン戦をやろうとした理由を自伝でこう語っている。

「普通の感覚なら、そんな荒唐無稽な話に乗るわけがない。だが私は非常識なことを実現することにロマンを感じるタイプの男なのである。スケールが大きければ大きいほど、燃えてくる。アミン戦が成立すれば、これはアリ戦以上の話題になるだろう」

まさに猪木の常識、非常識! 良い話題であろうが悪い話題であろうが「アリ戦以上の話題になる」、それこそが猪木が求めたものだったのでした。

こうして実現に向かって動き出していた猪木vsアミン大統領だったが、この会見直後に反体制派のウガンダ民族解放軍の攻撃を受け内戦状態となり、軍内部の離反もあり失脚。アミンはリビア、そしてサウジアラビアに亡命したことで結局、幻に終わりました。

もし本当に実現していたら、内容如何によっては猪木は国民栄誉賞どころか世界的な非難の的になっていたはず。幻に終わって良かったのかも知れません。

しかし当の猪木は自伝で、「あの時代は奇想天外な話がたくさん持ち込まれたし、面白がって夢を燃やすことも出来たのだ。それに比べて、今は夢のない時代になったと思う」と語るなど、アミン戦は本気でやりたかった様子。猪木はやはり常人の尺度では測れないスケールの持ち主なのだと思います。
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