mixiユーザー(id:2502883)

2019年12月06日16:22

317 view

早島大祐『明智光秀』(NHK出版新書、2019年)を読む

 早島大祐『明智光秀』(NHK出版新書、2019年)を読む。早島先生の本は、一般向けの『室町幕府論』(講談社選書メチエ)、『足軽の誕生』(朝日選書)、『徳政令』(講談社現代新書)などをこれまで読んできた。これらが主に室町時代を対象としてきたのに対して、この本は戦国時代の人物に焦点を当てている。それも、2020年の大河ドラマの主役になる明智光秀である。

 これまで明智光秀は、美濃土岐氏の系譜を引き、足利義昭の側近となり、そのまま織田信長に仕えたと捉えられてきた。ただ、将軍家に仕えるまでの経歴はよく分かっていない。
 加えて、ドラマなどの光秀は、信長の「革新性」と対称的な「保守的」な人物像として描かれてもきた。信長の実力を高く評価しつつも、先例を考慮しない姿勢に不満を募らせる。比叡山の焼き討ちに強い衝撃を受け、室町幕府の再興を胸に秘めるうちに、信長打倒に傾いていく、といった感じである。
 しかし、信長の「革新性」が相対化され、彼の保守性や信仰心も考慮されていくようになると、同時に光秀の人物像にも再考の余地があらわれる。たとえば、信長と将軍・義昭の連立政権が破綻したとき、光秀は真っ先に信長の配下に加わっている。将軍側近のなかには、そのまま義昭と行動する者もいたのに、である。また、比叡山の焼き討ちも、これに反対していたというより、むしろ率先してこれに加わっている。未だ将軍の側近という扱いにもかかわらず、家臣以上のはたらきをしたことも分かってきた。

 それでは明智光秀とは、どういう人物だったのか。早島先生は、先行研究だけでなく、自ら史料を分析した結果をもとに、興味深い指摘をいくつかこの本で行っている。単なる評伝とも少し異なっていて面白い。

 まず、副題にもなっているように、明智光秀の出自などははっきりしないものの、資料調査から、彼がどうやら医師であった可能性があると述べている。もっとも、本格的な医師や薬師ではなく、医師たちのネットワークに連なる立場にいたということである。
 美濃明智氏の出身だったけれども、何らかの理由で牢人となり、生計を立てるために医学の知識を学び、越前国長崎称念寺門前に約十年間、医師(的なもの)として暮らしていたらしい。戦国の世であるから、武士もまた何らかの医学知識を得ておく必要があった。そしてその知識は、牢人になったときにも役立ったわけだ。

 また、ドラマなどでは足利義昭の側近、つまりはじめから上級武士として描かれているけれども、実際は足軽衆の一人に過ぎなかったようである。管領家の一族であった細川藤孝もまた、義昭の側近だったけれども、彼らは同輩ではなく、光秀は藤孝の下ではたらくような関係だった。義昭自身、もとは興福寺一乗院門跡、すなわち僧侶だったわけで、自前の家臣がいたわけではない。兄・義輝が暗殺されたあとに彼を擁立しようとした幕臣(細川藤孝もその一人)と、あとは有象無象の牢人たちがこれに加わった。光秀もまた、越前の朝倉氏を頼った義昭のもとに集まった一人だったということになる。

 しかし行政手腕に秀でた彼は、次第に頭角を現す。義昭が信長の求めに応じて上洛を果たすと、主に文官として京の行政を差配していく。もっともこの段階でも、ドラマのような部将クラスではなく、名もない官僚に過ぎなかったけれども、信長が勢力を拡大していくなかで、武官としても大きなはたらきを遂げ(そのなかに比叡山の焼き討ちも入っている)、義昭の家臣でありながら、信長からも領地や城を任されるようになる。
 出自や経歴にこだわらない自由な気風が光秀にとっても合っていたのだろう、上述したように義昭・信長連合政権が破綻したのち、光秀は正式に信長の家臣となっている。

 行政官としての光秀の有能さは、もちろん彼個人の資質によるところが大きい一方、室町幕府の混乱のなかで、長年、政所執事として京の行政に携わってきた伊勢一族を配下に加えることで、より顕著になった。伊勢氏の一族には、関東の雄・後北条氏もいるけれども、光秀に仕えたのは、その嫡流と家臣たちであった(後北条氏は傍流)。そして彼らはこののちも光秀に仕え、彼と命運をともにするのである。

 そして明智光秀を語る上で、最大の謎とされる本能寺の変については、一般的な諸説を云々することはせず、それまでの光秀とその周辺の動きを見ている。
 ひとつは、織田氏の版図が拡大するなかで、文官としても武官としても有能な光秀は、休む暇もないほどに戦地と居城、そして京を移動している。これは相当な激務だったと考えられる。その背景には、版図の拡大にもかかわらず、それを処理できる家臣が不足していた織田氏の構造的問題があった。
 加えて、西に毛利、長曾我部、北に上杉、東に武田と戦いを続けるなかで、前線はますます京や安土から遠ざかることになる。そして安定した領国には一門を配置し、係争地には光秀や、羽柴秀吉らを向かわせることになり、この頃になると織田家には一門・重臣と外様といった身分の相違が浮き彫りになっていたという。光秀は、その活躍によってこの頃には最高幹部の一人になっていたものの、かつての織田家が持っていた自由な気風は失われていた。
 それでも、光秀には妹が信長の側室になっており、一門に準じる扱いを受けていた。しかしその妹が他界したことで、織田家中における光秀の地位や立場は不安定なものになった。有力家臣でありながら、接待役なども引き受けざるを得なかったのも、それを物語っているという。

 また、ここでは織田家の「革新性」にも触れている。それは、版図の拡大と並行して、兵や物資を大量に輸送できる道路の建設である。これによって、各地の大大名と戦う場合でも、版図から大軍勢の動員を可能にした。
 しかし、そのために駆り出された人びとの負担は大きく、それを支える家臣の不足ともあわせて、信長の拡大戦略の限界が露呈しつつあった。信長の「革新性」は、多くの犠牲を伴うものであったともいえよう。
 光秀も、そうした環境のなかで領国経営を行っている。この本では、光秀が検地を行う際、指出を専らにしたのに対して、秀吉がのちの太閤検地に連なる手法をとったと対称的に述べている。ただ、中野等『太閤検地』(中公新書、2019年)では、秀吉の検地もまた時期によって変化していると述べられており、このあたりの検討はもっと深める必要があるかもしれない。
 ただ、領国内で大軍勢の迅速な移動を可能にしたことは、光秀にとって信長、信忠親子を討つことを可能にした反面、秀吉の「大返し」によって自らも討たれる結果を招いた。すでに触れたように、このときの光秀の軍には、室町幕府の行政を支えた伊勢氏も含まれていて、彼らも多く討ち死にしている。

 明智光秀が保守的か否か、そしてそのことが本能寺の変につながっていたかどうかというのは、この本を通じて彼の生涯を振り返ったとき、あまり意味のあるものではないことが分かる。一介の牢人が将軍・足利義昭の知遇を得、さらに織田信長に仕えて頭角を現していく姿は、むしろ秩序が大きく動揺したこの時代特有の現象だからである。
 そして、新たに近世的な秩序が再構成される段階で、光秀は命を落とすことになる。それが彼の運命であったかどうかはともかく、そのような過渡期の人物として、彼を描くことはあってもいい。

https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000886082019.html
2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する