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2019年07月28日10:57

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四国遍路 巡礼と観光のあいだ

 四国八十八か所は、弘法大師(空海)が若かりし頃に修行した霊場とされ、いまの徳島、高知、愛媛、そして香川四県にある真言宗の寺院(一部、天台宗)を巡礼する。
 服装も、菅笠に金剛杖、白衣というのが定番であり、各札所ではいわゆる御朱印、黒書をもらう納経帳を持っていく。それ一式を販売しているところも、四国にはある。
 俳句ではお遍路さんの季語は、春。修行の場ということで、山岳地帯なども多いため、気候のいい時節が適しているためだ。それと比べると日暮れが早いけれど、秋遍路という言葉もある。

 ただ、このお遍路さんのスタイルが定着したのは、近代以降で、服装などは戦後に一般化したものである。江戸時代あたりまでは、出家した山伏などが修行する場であった。それ以前のことになると史料がないので分からない。
 江戸時代から、一般の巡礼も少しずつ増えていく。これは全国的にみられるもので、最も有名なのが伊勢神宮へのお陰詣り。御師(おし)と呼ばれる人たちが全国に散らばり、伊勢参詣のための宿や道案内を行っていた。いまでいう旅行代理店みたいなものである。
 関東では、大山詣り、江の島詣りが流行した。これも参詣という側面と旅、レクリエーションという性格をもつ。
 四国でも金毘羅参りが流行した。門前町の琴平は、四国各地からの街道が整備され、中国や近畿からも巡礼者がやって来た。

 それらに比べると、四国遍路はハードルが高い。いまと違って、道も険しく、電灯などもないから、巡礼できる人は限られていた。ただ、そのなかには病気や貧困、差別に苦しむ人が、弘法大師の慈悲にすがって各地を回っていたそうである。もちろん、その道中で命を落とす人もいただろう。
 また、四国の村落では、若者たちが成人になる通過儀礼として、彼らを遍路に送り出す習慣もあった。こうしたことは戦前まで行われていたようである。

 戦前から戦後にかけて、この巡礼はさらに観光、レジャーの側面を強くしていく。各札所まで電車が走り、山のふもとからはケーブルカーやロープーウェイが通る。戦後になると道路の整備も進み、巡礼はバスで移動できるようになった。
 それとともに、服装なども一般化が進んだ。お遍路さんは、参加者にとっては功徳を積める行為であり、地元にとっては重要な観光資源となったわけである。

 個人的な印象だけれど、お遍路さんの数自体が減少傾向にある一方で、白衣をまとって歩く人は増えたように感じる。そのなかには外国からの人たちも目立つ。徒歩で向かう人、自転車に荷物を積んでいく人など、巡礼の仕方も多様化しているようだ。
 いわゆるツアーとしての四国遍路は、今後も減っていくと思われる。単純に観光地化させるのではなく、巡礼への付加価値が新たに求められているといえよう。

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■お遍路さん、10年で4割減 バスやマイカー利用が減る
(朝日新聞デジタル - 07月27日 12:34)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5724286
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