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2019年07月26日12:14

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書物復権、民主主義、イギリス政治

 毎年、夏の書店で楽しみなのが「書物復権」という企画で並ぶ学術書のラインナップである。これまで読みたくても読めなかった本が手に入るのはもちろん、自分が強く影響を受けた書籍が選ばれるのもうれしい。

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 このなかで目についたもののひとつに、牧原憲夫『客分と国民のあいだ』(吉川弘文館、1998年)がある。近代日本における国民意識の形成を論じた本で、明治前期の政治と民衆の関係について、私に蒙を啓かせてくれた名著である。

 近代日本は、幕末維新の動乱のあと、すぐに自由民権運動が語られる。それゆえ、専制政府と民衆という対立関係が自明のことと誤解されやすい。
 しかし実際は、政治の枠組み、政策決定から長く阻害されてきた、圧倒的多数の民衆にとって、そこに関与するなど予想できないものだった。むしろ、為政者たちが政治に責任をもち、民衆を導くことを求めていた。こうした民衆の姿勢を、この本では「客分意識」と述べる。
 自由民権運動もまた、明治政府に対峙する一方で、そうした客分意識に馴染んだ民衆に対しても、共同体の一員としての自覚を促すものであった。民権運動家と明治政府は、その方針をめぐって対立しながら、民衆が国家に奉仕する意識をもつことについては、共通した立場を有していたことになる。

 その民衆が「国民」へと脱皮を遂げる契機は、対外戦争であった。日清戦争はメディアの発達を伴い、その過程において民衆の国民意識も高まっていくことになった。
 こうした見方は、たとえば、小川原正道『近代日本の戦争と宗教』(講談社選書メチエ、2010年)にも引き継がれている。対外戦争が民衆に日本の「内と外」を自覚させた。それを媒介したのが、新聞などのメディアであり、仏教やキリスト教といった宗教もまた例外ではなかった。

 これをきっかけとして、民衆は政府に物申す存在へと変わってくる。不十分ながらも、参政権の付与と拡大が漸進的に行われ、メディアも雑誌が広く読まれるようになり大衆文化の担い手となっていった。国民意識の形成は、さらなる政治参加への要求となり、日本における民主主義の原型を作り上げていった。

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 このほかに、A.D.リンゼイ『民主主義の本質』(未来社、1992年)も復刊されていた。イギリスの民主主義について、清教徒(ピューリタン)革命に遡ってその形成を論じたものである。清教徒革命は、その後の名誉革命と比較すると、国王の処刑、内戦、独裁制といった混乱が続いた。それゆえに、『統治二論』を著したジョン・ロックからの評価は決して高くない。
 しかしリンゼイは、清教徒革命をきっかけとして、議会が政治に責任をもち、討論と妥協を通じた共同体意識が形成されたこと、それがイギリスにおける民主主義を形づくったと述べる。

 実際に近代イギリスは、内には国王や党派間の対立を抱えながらも、その後は武力ではなく、多数派の形成と討議によって政治の方針を決定していった。もちろん、その過程において危機もなかったわけではない。国王と議会が対立したときは、議会の長老政治家が両者を仲介し、妥協に導くこともあった。議会で党派対立が先鋭化した場合は、国王がその仲裁を買って出た。
 このようにして、政治のルールが形成されていき、参政権が拡大したのちも、共同体における共通利益をはかる議会政治の伝統が、イギリスの民主主義のなかに定着していったのである。


 ところが、そのイギリスが現在、苦悶にあえいでいる。ブレクジット(EU離脱)の国民投票をきっかけに、まるで地獄のふたが開いたかのような狂騒が続いている。保守党は満を持して打って出た選挙で少数与党に転落し、テリーザ・メイ首相は指導力を発揮できず、右往左往するばかり。そして党内ではEU離脱派が発言力を高めることとなった。
 労働党は左派が影響力を高め、産業国有化を主張しはじめている。保守党も頼りないが労働党も危ないという状況が、事態をさらに悪化させている。
 それはまるで、熟議をして決定した議会の方針は、国の共通利益を代表するものという、イギリス政治の伝統が失われてしまったかのようだ。

 日本にとっても、イギリス政治は常に仰ぐべきモデルと理解されてきた。上述した明治前期の自由民権運動も、福澤諭吉や大隈重信らが、イギリス型の政体を導入すべきと主張した。明治憲法はプロイセン流と捉えられているけれども、その運用にあたっては、伊藤博文らもイギリスの議会制度を参考にしているという研究もある。戦前の政党政治の実現も、その延長上にあった。
 2000年代、日本の政治改革もイギリスからの影響を強く受けている。二大政党制を模索し、その一翼を担うべく党勢の拡大を図った民主党は、イギリス労働党の「第三の道」に基づいた政策形成を目指した。


 それがなぜこんなことになったのか。EU離脱の方法も期限も定まらず、ずるずると決められない政治を続けた挙句、メイ政権は退陣し、ボリス・ジョンソンが新たな首相に任じられた。これによって、「合意なき離脱」というハード・ブレクジット路線に突き進む可能性が高まった。

 ただこれを、イギリス政治の変質と捉えるのは早計だろう。ポピュリズムが政治の伝統を破壊したというわけでもない。
 イギリスは、歴史的にも国の自決権を最も重視してきた。自ら決定したものには責任をもつという客分意識とは対極の立場を保とうとしてきたわけである。
 しかし、EU加盟はその自決権を一部とはいえ失わしめた。それゆえに、前身のECに参加した当初から、離脱を是とする世論が根強くあった。歴代政権は、それを何とか表面化させないよう、根回しや妥協を続けてきた。

 そうでなければ、離脱後の混乱が容易に想像できる段階でもなお、世論の離脱支持が未だに根強いことの説明がつかない。そして世論の支持があるからこそ、離脱強硬論が議会でも拡大しているのだ。
 とすれば、今回のイギリス政治もまた、歴史的に連続した現象であると捉えなければならない。もはや怖いもの見たさに過ぎない段階ではあるけれども、どこに着地点を見出すのか。それによってイギリス社会がどうなっていくのか。見極めていく必要がある。
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