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2019年07月19日21:39

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再び、『歎異抄』について

 昨夜は大きな事件の影響を受けてかどうか、なかなか寝つけなかった。五月末に起きた、川崎・登戸駅での殺傷事件のときもそうだったけれど、私たちはいつ何時、このような凶事に遭遇するか分からない。

 登戸駅での事件をきっかけに、私は吉本隆明『最後の親鸞』(ちくま文芸文庫、2002年)を読んでいった。親鸞の弟子・唯円が著した『歎異抄』をもとに、晩年の親鸞がたどり着いた境地について考察した本である。

 これについては、五月末に日記で軽く触れている。唯円に親鸞は、「わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」と述べる。吉本はこれについて、「人間は、必然の<契機>があれば、意志とかかわりなく千人、百人と殺すほどのことがありうるし、<契機>がなければ、たとえ意志しても一人だに殺すことはできない」と解している。
 ではこの<契機>とは何か。『歎異抄』で<業縁>という言葉に対応する構造について、吉本は「人間はただ、<不可避>にうながされて生きるものだ」ということを示すものとしている。

 私はこれを、客観的視点、すなわち、無差別に殺傷する人にも当てはめることには抵抗がある。もちろん親鸞や唯円が説くように、行動がすべて自らの意志のみで決定するものとは思わない。ただ、不特定多数の人が何の意味もなく殺傷されることを、<契機>と片づけるのはあまりにも軽すぎる。

 一方で、吉本の言わんとしていた<不可避>という考え方は、これを読み終えて、何度もこのことを思い返すなかで、じんわりと自分のなかで解釈できるようになった。

 ここでいう「<不可避>にうながされて生きる」というのは、言い換えれば、私たちが常に直面し続ける<現実>のことであろう。たとえば今回の事件でも、犯人が会社に入れなければ、ガソリンがうまく着火しなければ、あるいはこれほどの被害が出なかったかもしれない。
 しかしそれは、起きてしまった<現実>に何ら変更を加えるものではない。私たちは、たとえ理不尽であっても、起きてしまった事件や事故について、それに対処するということしか、他に方法をもたないのである。ifというのは、理屈の上ではあったとしても、私たちが直面している<現実>を変える力はない。

 そういう意味で、<契機>とは主観的な概念であるようにも思われる。ただ、吉本も指摘しているように、「<不可避>にうながされて生きる」のは、自らの意志や決定を無意味なものにするわけではない。私たちは常に直面する<現実>に対して、どう対処すべきで、どうあるべきなのか、選択する自由、余地はある。そこで選ばれた「善行」も、来世への功徳や、神仏からの報いを期待するものではなく、ただその行為や態度自体に満足するかどうかにとどまる。いいことをしたら天国や浄土に行き、悪いことを続けたら地獄にいくといったような価値観を、ここでは捨てなければならない。
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