mixiユーザー(id:2502883)

2019年07月11日09:50

166 view

社会としての「自己責任論」について考える

 私は、いわゆる「自己責任論」というのは、個人にかんする限りにおいて、ある程度適用できる考え方だと思っている。しかしそれを社会にも当てはめようとすることには無理があるし、それこそ格差の固定につながりかねないと考えている。

 まず個人としての「自己責任」とはどういうことだろうか。
 私たちは少なくとも、教育を受ける権利がある。特に子どもの頃は、勉強をすればそれなりの成績が得られて受験や就職に有利という環境のなかで育ってきた。逆にいうと、勉強をしなければ成績はよくないし、進学の選択肢も狭められてしまう。勉強をする/しないが、その結果(成績)につながっていくという環境のなかに身をおいている以上、「自己責任」が意識されるのは自然なことであろう。

 しかしその対象が複数になると、途端に「自己責任」は適用しなくなる。
 なぜなら、個々人によって能力や知識には差があるため、同じことを同じ時間だけ勉強したとしても、その結果まで同じということにはならないからだ。家庭が裕福さも、そこには強く影響する。
 したがって、AとBがそれぞれ同じように勉強したとしても、進学や就職で差がつくことは十分にあり得る。それゆえ、「自己責任」は個人に限って検討すべきものであって、それを他との比較で用いるべきではない。ましてや対象が社会ともなると、全く意味をなさなくなる。

 それでも私たちは、結果だけをみて「Aは勉強を頑張ったから合格できた、Bは努力不足」というレッテルを貼りがちである。こうした認識は、子どもだけでなくその親や教師までも、抱いていることが多い。そういう刷り込みが「自己責任論」を肥大化させていった要因でもある。

 さらにいえば、個人としてでさえ、結果に伴う責任を自分がすべて負わなければいけないというのは酷である。成功や失敗は、常に運が左右するものであり、その前提には環境も含まれる。私たちが個人の「自己責任」を問う場合でも、周囲の要因を安易に取捨すべきではない。そこに多数が絡むとなれば、なおさらである。

-----

 もっとも、この認識は最近になって広がったというわけではない。むしろ昔から、個人と社会を混同した「自己責任論」はあった。
 しかしそれが格差是正の妨げになってきたのは、要するに社会から成長のパイが失われ、限られた富を奪い合う構造になったからに他ならない。ここでは「自己責任論」が政治の世界に広がったのは1990年代末という指摘があるけれども、ちょうど新自由主義が隆盛を見た時期が重なる。
 すなわち、社会をボトムアップしていくにはコストがかかり過ぎるから、競争原理を持ち込むことによって、活気や刺激を喚起させようという流れが、この時期から広がっていた。構造改革もその文脈において人びとに支持された。

 けれども、その試みは現状を維持しようとするがゆえに、バブル期のツケを早期に処理できず、リストラクチャー(再構築)の美名のもと、人件費の抑制、すなわち新たに社会に参入する若者たちの門戸を狭めるかたちとなって現れた。「自己責任論」は、それを正当化するロジックとしても語られたのである。つまり、「職が得られないのは努力が足りなかったせい」「給料が少ないのはそれに見合うスキルしかないから」という言葉が、まかり通る時代が訪れた。
 結婚ができない、子どもが育てられないというのも、同じロジックで批判された。「私たちの頃はもっと大変だった」「最近の若者は甘えている」というわけだ。まさに貧すれば鈍する。「自己責任論」の暴走は、中長期的な日本社会の維持や発展に深刻な影響を与えたと言わざるを得ない。

-----

 一方で私は、1990年代以前の社会、すなわちボトムアップに戻すべきというのも無理があると考えている。なぜなら、少子高齢化が加速度的に進んだ結果、1990年代以前とはもはや前提が大きく異なってしまっているからである。

 それは社会保障費の増大である。社会保障の前提は、若くて健康な多数の人たちが、病気や怪我で悩む少数の人たちを支えることにある。
 しかし、高齢者が多数を占めるようになると、医療や福祉の予算が他を圧迫するようになる。実際、社会保障費は毎年、一兆円ずつ増えていて、いまや国家予算の三分の一を占めるまでになった。ここに国債の支払いを含めると、ほかに使える予算は半分以下になる。
 税収がバブル期より上回っても増税する必要があり、個々人の福祉サービスはむしろ削減しなければならないとなると、自助努力が求められてくる。そこにも「自己責任論」が顔をもたげてくる。

-----

 ある人が、「明治は個人主義の時代で、大正になってそこに「社会」が発見された。しかし平成はその「社会」への信頼が崩れたという意味で、対照的」ということを述べておられた。これは示唆に富む発言である。

 明治時代は、十分な社会保障など用意されていなかったから、立身出世し富を得て、安心と安全を確保するという「成功モデル」があったとされる。もちろんそれが常に成功するわけではなく、失敗すれば没落するリスクも大きかった。
 ただ、あくまでも理念としてではあるけれども、彼らには裕福になればそれを社会に還元するという倫理、哲学もあった。たとえば、都市を結ぶ鉄道を敷設したり、学校を作って子弟の教育を手掛けるなどした。社会資本の一翼を担っていたからこそ、近代日本の発展があった。明治期の啓蒙思想には、いわゆるノブレス・オブリージュが伴われていたといえる。

 ところが平成における「個人」は、求められるものといえば自己の利益のみであって、「社会」に還元しようという姿勢は急速に失われつつある。経済的弱者に対する「税金泥棒」の声や、病気や怪我に苦しむ人に「死ね」という。
 冒頭でも述べたように、自己責任は本来、自らを律するためのものであるべきなのに、それが「強者の論理」にすり替わっていることに、現代の歪みを感じる。

-----

■貧しいのは本人のせい? エリート階級に広がる「自己責任論」、乗り越えるには 格差問題の専門家に聞く
(ウィズニュース - 07月10日 07:10)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=220&from=diary&id=5699590
4 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する