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2019年07月02日23:25

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大雨と治水事業

 7月2日は「うどんの日」なのだそうな。昨日も触れたように、半夏生でうどんを食べる習慣があるというのがその理由である。郷里では、半夏生までに田植えを済ませ、春先に収穫した小麦から作ったうどんをすすって、農作業の疲れを癒した。

 7月上旬は、年によって天候が大きく変わる。梅雨らしく、小雨や曇りが続くこともあれば、集中豪雨に見舞われることもある。そうかと思うと、雨がさっぱり降らず、早々と梅雨明けしてしまうこともある。

 西日本では春から少雨が続き、梅雨入りも最も遅くなった。こういう場合は、梅雨明けはかえって早く、水不足に悩むことも多い。ただ今年は、梅雨入りのきっかけになった熱帯低気圧の接近で大雨となり、郷里の水不足は一気に解消した。ダムの貯水率も、6割程度だったものが、いまでは満水になっている。熱帯低気圧や台風がもたらす雨は、水の少ない地域にとっては、災害と背中合わせとはいえ、大きな恵みにもなり得る。

 ただ、天候は私たちの都合に合わせてくれるわけではない。九州南部では記録的な大雨が長時間降り続いており、明日は九州北部にも強い雨の範囲が広がる予報が出ている。


 平安時代後期、院政を布いて、文字通り帝王のように振る舞っていた白河法皇は、天下三代不如意、すなわち、帝王ですらどうにもならないものとして、双六の賽(サイコロの目)、山法師(比叡山の僧兵)とともに、賀茂川の水(川の氾濫)を挙げた。
 賀茂川は、都の東を流れていたけれど、しばしば増水、氾濫して京を水浸しにしていた。これにはなすすべがない、お手上げだというのである。

 ところが、戦国時代から領主や戦国大名のなかに、治水事業に取り組む人びとが現れるようになった。氾濫が頻発するところに堤防を築くだけでなく、川の流れすらも変える土木工事が行われた。それは江戸時代になっても続けられる。
 天災はお手上げという時代から、その防止や被害の抑制につながっていくことこそ、「社会」の成熟を示すものといえる。院政を布いた上皇、法皇たちは巨万の富を得たけれど、彼らはそれを寺院の造営にするくらいしか、使い道がなかった。それが近世の幕府や藩になると、治水や新田開発、都市整備に用いるようになった。

 近世から近代への転換は、大きな断絶も伴っているけれども、「社会」の構築や維持については連続性がある。それでも天災はしばしば、私たちの想定を超える規模で犠牲を出すこともある。この時期の大雨や、川の土手にしばしば見受けられる近世以来の治水事業を伝える石碑を目にするにつけ、防災に取り組んだ人びとの歴史を思う。
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