3/10(日)、シネマe〜ra浜松で『家へ帰ろう』を観る。
3/1に観た映画『ピアソラ 永遠のリベルタンゴ』もそうだったが、期せずしてアルゼンチンの映画が続いた。
ブエノスアイレスで仕立て屋を営む88歳のアブラハムは、子供達から無理やり仕事をやめて老人施設に入るように説得される。
片足を引き摺るように歩く彼は、これ以上悪くすると、足を切断しなくてはならない。
アブラハムは自分の片足を「ツーレスよ」と古くからの友人のように呼ぶ。
あとから調べると、それはイディッシュ語で「問題」という意味だとの事。
イディッシュは、20世紀前半迄は中・東欧のユダヤ人の共通語だった。ドイツ高地の方言にスラブ語やヘブライ語その他が混じった言語だったようだ。
たしか画家シャガールもイディッシュを使っていたように記憶する。
第2次大戦後、ユダヤ人の共通語はヘブライ語となり、イディッシュを話す人達は減った。
映画の全般はスペイン語だが、アブラハムは時にイディッシュを使う。
その訳は、彼の家系がポーランドのユダヤだったからだ。
はっきりとは語られないが、彼は第2次大戦後にアルゼンチンに移住してきたようだ。
仕立て屋や布地の問屋は東欧のユダヤ人の生業の典型的なものだった。彼の生地ポーランドのウッチ市は紡績業で栄えた町である。ウッチには当時22万人を超えるユダヤ人が暮らしていて、総人口に占める割合は34%にも上ったとの事だ。
第2次大戦時、ヨーロッパのユダヤ人はナチスドイツによって各地のゲットーに押し込められ、更には強制収容所で虐殺された人が膨大な数に上る。
あとで判るが、アブラハムはポーランド内の強制収容所(それはアウシュヴィッツだったかもしれない)に送り込まれる途中で命からがら逃亡した。
アブラハムの家では「ポーランド」と「ドイツ」という言葉を使うのはタブーだった。間違って使えば、彼は暗く不機嫌になり、家族の間に不穏な空気が流れた。それらの言葉は、彼に地獄のような記憶を思い出させた。
家を出るアブラハムのために集まった親族等がそれぞれの家に引き上げると、彼は荷物が山になった部屋の中で一人呆然とする。
長く務めてくれた家政婦が渡したのは、最後に彼が仕立てたスーツだった。
(原題は『 THE LAST SUIT 』。)
アブラハムは決心する、故郷ポーランドに行こうと。
これもあとで観客は知る事になるのだが、ポーランドには彼を匿ってくれた親友がいる。70年も連絡を取り合っていないから、生きているかどうかも判らないけれども。
有り金とトランク1つ、そしてあのスーツを持って、タクシーに乗り込んだ。
急に思い立った事だから、取れたその晩発の飛行機はスペイン・マドリッド行きだった。
歴史的国民的な背景から、ブエノスアイレスからの航空便は、何しろマドリッド行きが一番多い。
マドリッドからは列車でポーランドに入ろうという算段。
ここからはしばしロードムービーである。
思い出したくない過去を胸にしまった頑固な老人が各地で引き起こす事柄(または遭遇する事件)は、しばし観客の笑いも呼ぶ。
スペインの空港では入国審査で一悶着、彼の旅行の目的が係り官によく理解できない。
またマドリッドの小さなホテルでは盗難に遭い、現金も旅券も失ってしまう。
事の度に彼を救ってくれるのは、女性達である。
マドリッドには末娘が住んでいた。一番仲の良かった娘だが、喧嘩別れしてからは一度も会っていない。
困って無心に行くという決心はつかなかったが、ホテルの女主人がわだかまりを解くよう背中を押してくれた。
事細かな話をせずとも、末娘は納得して現金を渡してくれた。
ちらっと見えた彼女の腕には、いつ施したのだろうか、アブラハムの「ツーレス」に刻印された収容所のナンバーらしきものがチラッと見えた。が、彼女はすぐ腕を隠してしまう。
監督パブロ･ソラルスは、ここでシェイクスピアの『リア王』を意識していたらしい。
リア王は3人の娘達に、どれ程父を愛しているか言葉にする事を要求した。
上の娘等は巧みに表現したが、一番下の娘コーディリアはリア一番のお気に入りだったものの、言葉で言い表す事ができず、王の癇癪を引き起し勘当されてしまう。これが『リア王』の悲劇の始まりだった。
ぶっきらぼうな父アブラハムによく似た言葉足らずの末娘。消せないタトゥーは、遠く離れて暮らす父への愛の証だった。
(絶滅収容所の生存者の子孫達には、これをアイデンティティとして、ホロコーストを忘れないための刻印として、守っている人達も多いらしい。)
パリ駅では、フランス語を話せないアブラハムはまた駅員と揉める。
ポーランドに行きたいがドイツは通りたくない、そう言いたいが、先に書いたように「ポーランド」と「ドイツ」という言葉は絶対口にしないと決めている。
彼は紙に書いて理解させようとしたが、それなら飛行機で行けと、相手にされない。
興奮してチケットを放り投げるアブラハムを、1人の女性が追ってきた。
彼女はドイツの文化人類学者でイディッシュが話せた。彼女はまず戦時中のドイツの行為を詫び、そして、彼が何を言いたいのか、何を考えての行動か、訥々とした彼の話をせかさずに聴いてくれた。
アブラハムは、彼女に心を開くようになる。
ドイツを通過する電車の中で、彼はトラウマのため悪夢を見て倒れる。
気づくのは、チケットの終点であるワルシャワの病院のベッドでだった。
看護師の女性は、アブラハムを親身になって世話をしてくれ、彼の希望を聴いてくれもした。
しかし、70年間、会いたいその人と連絡も取り合っていないし、連絡先も判らない、生きているかさえ分からない。
ワルシャワもそうだが、その間に都市は大きく変化している。
それでも、ウッチ迄車で送り、更に車椅子を押して彼の行きたい所を一緒に探してくれた。
古い住所録と、彼の記憶を頼りに、街を歩き回った。
会いたいその人はポーランド人で、アブラハムと同い年、彼の親は、アブラハムの父親が営む仕立て屋で働いていた。
強制収容所送致の途中で逃亡し、痩せ衰えぼろぼろになって戻ってきたアブラハムを、父親の反対も顧みずに受け容れ、地下室に匿ってくれた。ユダヤ人を匿えば、彼等も処罰を受け、収容所送りになる可能性が高いにも関わらず。
彼は幼馴染の親友であるだけでなく、命の恩人でもある。
アブラハムは、自分が仕立てた最後のスーツを彼に進呈し、感謝の気持ちを伝えたい。
重いテーマを抱えながら、センティメンタルになり過ぎず、ユーモアも忘れず、バランスのとれた作品だった。
ラストは、ここでは言うまい。
監督･脚本 パブロ･ソラルス
撮影 ファン･カルロス･ゴメス
編集 アントニオ･フルートス
音楽 フェデリコ･フシド
出演 ミゲル･アンヘラ･ソラ,アンヘラ･モリーナ,ユリア･ベアホルト,オルガ･ボラズ他
受賞 マイアミ国際映画祭観客賞,シアトル国際映画祭最優秀男優賞、他多数
2017年/アルゼンチン,スペイン
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