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2018年12月16日16:11

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若尾政希『百姓一揆』(岩波新書、2018年)を読む

 若尾政希『百姓一揆』(岩波新書、2018年)を読む。学術的に百姓一揆の実像は、従来イメージされてきたものとは大きく異なることが明らかになっている。百姓一揆は「竹槍蓆旗(ちくそうせっき)」、つまり竹やりを持ち、ムシロ旗を掲げて代官所や庄屋を襲撃するものと、長く理解されてきた。またその性格は、被支配者である百姓たちが、権力者に歯向かう人民闘争として捉えられてもきた。マルクス主義が歴史学にも色濃く投影された1970年代まで、それは通説のように扱われてきたのである。

 しかし、その前提となる構造の見直しが進み、近世社会史は大きく様変わりしてきている。たとえば、支配層・被支配層の関係は、幕府や藩が朱子学に基づいて正当化したという理解は、そもそも朱子学がそのまま支配層に受け入れられたわけではなかったことによって、疑問視されるようになった(揖斐高『江戸幕府と儒学者』(中公新書、2014年))。また、百姓一揆のイメージは自由民権運動が広がる明治前期につけられたものだったことも、学術的に説明がなされている(松沢裕作『自由民権運動』(岩波新書、2016年))。

 史料によって、百姓一揆が実際に竹やりを振るって武力闘争に及んだ例はほとんどなく、手には農具や鉄砲、旗はムシロではなく木綿や紙が用いられたという。「竹槍蓆旗」の何一つ、これでは当てはまらない。なお鉄砲は殺傷のため使うのではなく、鳴り物として用いられた。鉄砲は害獣を追い払うための農具として位置づけられていたのである。
 加えて、百姓の代表者が、手順を無視して藩主や家老に意見を述べる、代表越訴型一揆も、実際にはほとんど行われていなかったという。このことから、私たちのイメージする百姓一揆は、ほとんど実像を反映しないものということが明らかになってしまった。

 それではなぜこのような、実態と異なるイメージが流布してしまったのか。実は『百姓一揆』の主題はここにある。そのため、戦後の社会史の動向からはじまって、『太平記』読みに至るまで、話題が大きく飛ぶことになっている。

 簡潔に述べると、近世中期から後期にかけて、活字文化が武家だけでなく、農村にも広がっていったことが前提となった。そこで読まれたものは軍記物、とりわけ『太平記』であり、単に娯楽としてだけでなく、いまでいえば自己啓発、ビジネス書のような扱いを受けるようになる。『太平記』の解説書なども広く流布し、それを元ネタとした百姓一揆物語も、全国で著され、読まれるようになったと、この本では説明している。

 また、『太平記』のなかでは楠木正成を理想の武将だけでなく、領主であったという理解が、解説書などから理解されるようになった。それに合わせて、百姓一揆物語も、18世紀以降、主君と百姓の理想的な関係を阻む「悪役」として、代官や庄屋を登場させ、勧善懲悪的なストーリーを作り上げていった。主君は悪役にそそのかされたことを「反省」し、百姓の代表者は責任を取って処刑されるものの、義民として祭り上げられることとなる。
 ただ、主君が百姓の暮らしを思いやることこそ理想という認識が百姓たちにも広がることによって、それを糾すこととしての百姓一揆に、理論的正当性をも与えることになった。このことは、近世後期、飢饉が頻発し、貧富の差が拡大するなかで、幕府や藩だけでは社会の動揺を抑えられなくなってきたとき、力を持つようになる。そのため、幕府や藩は、庄屋や商家といった富裕層にも、「自発的」な社会貢献を求めるようになっていった。この関係は、近世から近代への過渡期的現象としても理解できる。

 こうした近世から近代に至る社会史、民衆史については、上述した松沢裕作『自由民権運動』のほか、今年も横山百合子『江戸東京の明治維新』(岩波新書、2018年)など、新書レベルでも優れた本が出るようになっている。民衆を被支配者、搾取される側としてのみ理解したとしても、過去をうまく説明できなくなっている。『百姓一揆』は、それ自体だけでなく、近世社会の民衆のあり方に光を当てるという点で、非常に刺激的な一冊だといえよう。

https://www.iwanami.co.jp/book/b378376.html
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