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2018年12月06日22:57

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文芸大聴講[保存と修復]〜第10回 《モナリザ》の続き

12/6(土)、静岡文化芸術大学の授業[保存と修復]の聴講第10回目。
今回のテーマは先週に続き《モナリザ》。

講師 杉山知太郎

レオナルド・ダ・ヴィンチが《モナリザ》を描き始めたのは1503年。
現在はルーヴル美術館蔵。
ルーヴルにおける作品番号は「絵画779番」。

◆描き方
描き方が判るという事は修復の仕方が判るという事。
最初は赤チョーク(or ペン)でデッサン。
その輪郭に穴を点々と開け、粉を振りかけて、輪郭を転写。
ポプラ材に油彩。「板絵」と言われる。当時はまだカンヴァスはなかった。
下地塗り。

油彩;何度も重ね塗り、修正ができる。
この方法がレオナルドに最も適していた。フラスコ画は短時間で仕上げる必要があり、レオナルドに向かない。《最後の晩餐》《アンギアーリの戦い》、新技法のトライとその失敗を踏まえた。

レオナルドは、外見を見た通りに描く事を意図したのでなく、モデルの内面の描出迄を試みている。
レオナルドにとっての「美」を永遠に残そうとした。
ルネサンス時代迄、画家は職人であって、依頼人の注文があれば何枚でも描いたものだが、レオナルドは未完成の作品が非常に多い。
レオナルドは自分の好みや興味にのみ従って絵を描いた。
《モナリザ》は手放さず、1503年から死の直前迄筆を加えた。
その辺りはラファエロと大きく違う。

◆歴史
レオナルドは晩年、フランソワ1世に招聘され、アンボワーズの城に住んだ。

・《モナリザ》最初の不幸
フランソワ1世はこの絵を気に入り、自分の浴室に架けた。
水蒸気が当たる〜乾くの繰り返し=膨張と縮小の繰り返し→ヒビ割れの発生。

・2番目の不幸
1789年フランス大革命の勃発。幾度も戦火の危機。
その後、ナポレオンによって、ルーヴル宮は初めての公開美術館に。
《モナリザ》はヴェルサイユ宮→ルーヴルへ移動。
ナポレオンが皇帝になったのちは、自分のチュイリュリー宮にモナリザを移し、彼の寝室に架けた。
ナポレオンはイタリア侵攻時、美術品や関連資料を多数パリに運んだ。

・3番目の不幸
1911年8/21、ルーヴル美術館から盗難。
犯人はフィレンツェのペンキ職人ヴィンセンツォ・ペルージャ。
ペルージャはイタリアに持ち帰り、自身のアパートに2年間隠す。
画商に売却したい旨連絡。画商とウフィッツィ美術館が見て真作と判断。ペルージャは逮捕。
この頃はナショナリスムの抬頭期。
盗難の理由は、《モナリザ》は元々イタリアの美術品でイタリアで保存されるべきだとの考え。投獄は6ヶ月と短かった=ナショナリスムが背景としてあったため。
イタリアはフランスに返還せず、ローマ,フィレンツェ,ミラノ等巡回展が開催された。

1913年、ルーヴル美術館に返却。
現在は防弾ガラスに囲まれ、温度・湿度一定管理がなされている。

・レオナルドの個人史側面
1503年、レオナルドはミラノからフィレンツェに戻る。
その頃のレオナルドは科学に興味が集中しており、絵を描く情熱は持っていなかった。
それが、依頼に応えて描く事になったのは、モデルの魅力のせいだったろう。
しかし、絵の制作依頼者、モデル共に伏せられていた。

ミラノ文書館の調査により判った事。
サライ(レオナルド最後の弟子で愛人だったとも言われる。本名ジャン・ジャコモ・カプロッティ)の財産目録に、レオナルドが1519年に死んだ時「ラ・ジョコンダ」という肖像画がサライに遺贈されたと書いてあった。(*1)
遺贈が確かな事かどうかについては不透明部分もあるが、《モナリザ》が当時《ラ・ジョコンダ》と呼ばれていた事は確かだろう。
「ジョコンダ」とは、フィレンツェの裕福な商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リザ・デル・ジョコンドの綽名である。(*2)
イタリア語の「jocund」は「幸福な」「陽気な」を意味する。その女性名詞化が「ラ・ジョコンダ」である。つまり、本名ジョコンド、通称ラ・ジョコンダ「幸せな人」。
1503年ジョコンド夫人は第2子を生んだ事が判っており、その祝いが肖像画制作依頼につながったのだろう。
つまり、《モナリザ》のモデルは妊娠中であった。

その頃レオナルドは、子宮内部や胎児のスケッチ等もしており、女性の出産、生と死のサイクルに科学的な興味を注いでいた。

現代の科学者の発言として、《モナリザ》の前で重ねられた手の指はむくみを呈している。これは妊娠時の女性の兆候である、と。

初期ルネサンス迄は、肖像画は真横から描くものだった。
《モナリザ》は3/4身体を斜め前に向け、(誰かに呼ばれて向いたかのように)顔は正面を向いている。視線は観客と合う。
この3/4前を向いてこちらを見、前で手を組むポーズは、その後多くの画家によって描かれた。
例えばラファエロにはそれを真似た肖像画が多数存在する。

(*1)サライはレオナルドの死の前年1518年迄彼の下にいた。
同年ミラノに戻り、レオナルドが死んだ時は、彼のワイン畑の半分を《モナリザ》他の絵画と一緒に遺言によって相続したとされる。
フランソワ1世は、レオナルドからでなくサライから《モナリザ》を4,000エキュで買い上げた。
フランソワ1世の浴室には、〈裸のモナリザ〉と通称される絵も架けられていた。
フランソワ1世の好みそうな絵である。(フォンテーヌブロー派の絵画にその好みは引き継がれた。)
〈裸のモナリザ〉はサライが描いた(またはレオナルドが描いたものをサライが模写した)と言われている。
胸の膨らみはあるが、男性とも女性とも見える、両性具有的な肖像。
レオナルドの同性愛傾向とも符合する。
レオナルド作品には、男性とも女性とも断定できない人物画が他にもある。
ex.《洗礼者ヨハネ》

(*2)ジョルジョ・バザーリ(1511-74)が書いた『画家・彫刻家・建築家列伝』には「レオナルドは、フランチェスコ・デル・ジョコンドから妻モナ・リザの肖像画制作の依頼を受けた」との記述がある。
この書はレオナルドが死んでから31年後の1550年に出版された。


・《モナリザ》の背景についての考察。
実際にあった場所をそのままスケッチしたのでなく、想像上で描いている部分が多いだろう。
山は太古の石の山(崩れそうな)のように見える。
レオナルドはトスカーナで化石が発見された渓谷(ヴァルディキアーナ)を実際に訪れており、太古の大地の変動や種の進化について、ダーウィンの400年も前にある考察を抱いていたらしい。

レオナルドは正規の教育を受けていない。
生母と離れて暮らす中で(*3)、自然観察から多くを学んでいる。
キリスト教の教えでは、森は悪魔の住む暗黒の場所であって、近づいてはならないし、描いてもならない。
そういう場所にもレオナルドは行き、化石にも触れ、多々のスケッチも行った。多くの手稿にそれらが残る。
宗教に囚われず自然に学ぶ、それは科学者の目である。
背景の自然の光景は、キリスト教の天地創造の教えからは乖離している。

(*3)生母と父親は正式の結婚をせずに、レオナルドを私生児として生んだ。
1年間程は母はレオナルドに乳を与えたが、そこを去り、別の男と結婚した。
この幼児体験が、レオナルドの性癖に決定的影響を与えているだろう。
 
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