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2018年11月30日19:03

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天皇、皇族と側近たちとの信頼関係

 近代日本政治史において、天皇や皇族と政治家たちの関係というのは重要な点であって、さまざまな研究がある。政治システムとしての天皇は、議会での決定を覆すことはなかったし、それは形式的に主権は天皇にあると捉えられた明治憲法体制でも変わらない。
 ただ、近代天皇制は政府や議会が決めたことにただ許可を与えるだけの存在だったかというとそうではない。病弱だった大正天皇はともかくとして、明治天皇や昭和天皇は、言うべきことは言う能動的な君主でもあった。

 明治天皇は、憲法制定前に側近たちによる天皇親政運動の影響を受けることもあった。ただ、憲法制定過程においてい元勲・伊藤博文との信頼関係を構築していった。これによって、伊藤ら元老たちの意向を酌みながら、彼らの意思決定が割れたときなどはこれを調停する役割を担うようになる。

 昭和天皇は、若くして摂政、そして天皇として昭和初期の難しい局面に立たなければならなかった。ただそれゆえの気負いもあって、元老や重臣、軍部と方針がかみ合わないこともあった。しかしこのことが、国家の決定に悪影響を及ぼすものと捉えて以降、表立って政府や軍部の決定を批判するようなことはなくなった。
 一方で、弟宮たちは「モノを言う皇族」として兄の天皇に意見することも少なくなかったようである。君主として兄として、昭和天皇は弟宮たちの言動に神経質にならざるを得なかった。

 このように、近代の天皇は側近や元老、重臣たちに苦言を呈することもあったし、それが政治に影響を与える場面もあった。佐々木雄一『陸奥宗光』(中公新書、2018年)でも、陸奥は明治初年に政府転覆計画に関与した廉で投獄されているけれども、明治天皇はそうした「前科」のある陸奥を嫌っていた。そのことが閣僚など、彼のキャリアの障害になったことが描かれている。一方、昭和天皇も田中義一を首相辞任に追いやったり、二・二六事件に激怒したりしたことは有名である。

 ただ、長じるにしたがって、彼らは言動を慎重にするようになった。それは自らの発言や行動が独り歩きして、政治制度が揺らぐことを警戒するようになったからである。昭和天皇が弟宮をたしなめたのも、それが理由だった。

 もちろん、それは受動的な君主になったことを意味しない。誤解や混乱を与えないような根回しを行い、政治家や軍人たちの意図や行動を理解するよう努めたからである。それが、天皇個人としてはともかく、近代天皇制の安定に大きく寄与したというのが、近代政治史における天皇制研究の大まかな結論といえる。

 天皇の生前退位が目前に迫るなかで、秋篠宮さまの発言は、皇族もこの変化において過渡期にあることを示す出来事であるようにも思われる。言い換えれば、秋篠宮さまも今後は「皇嗣」となられるわけで、宮内庁などの幹部とも、これまで以上の信頼関係を構築していかなければならない。メディアに向かって意見を述べられることも、開かれた皇室という観点からは肯定的に受け取られることかもしれないけれども、それが混乱のもとにならないようにする関係性は求められよう。

 話題性では眞子さまのご婚約云々のほうがあるのかもしれないけれど、これからの皇室を考える上ではむしろ、宮内庁に対する不満を口にされたことのほうが気になる。

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大嘗祭に公費 秋篠宮さま見解
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=5397791
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