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2018年11月15日15:34

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佐々木雄一『陸奥宗光』(中公新書、2018年)を読む

 佐々木雄一『陸奥宗光』(中公新書、2018年)を読む。

 陸奥宗光は、明治政府の宿願だった条約改正交渉をまとめ、一方で日清戦争時の外相として開戦と講和を指導した、近代日本屈指の外交官、政治家として高く評価されている。「カミソリ大臣」と呼ばれたように、合理的な判断によって明治日本の外交政策を飛躍せしめた。
 この本では、そんな陸奥の生涯を追っているけれども、薩長出身者が政府の中枢を占める環境のなかで、非薩長(紀州)の彼は出自に対する強烈なコンプレックスを原動力としながら、権力に執着した姿をうかがうことができる。そういう意味で、反骨の政治家ともいえる。

 陸奥の事績は、意外とよく知られている。それは萩原延壽『陸奥宗光』(朝日新聞社、1997年)や岡崎久彦『陸奥宗光とその時代』(PHP研究所、1999年)など、優れた評伝が出ているからでもある。筆者の佐々木先生もあとがきで書いているように、萩原延壽『陸奥宗光』は私も感銘を受けた本のひとつである。
 また、陸奥自身も『蹇蹇録』(岩波文庫、中公クラシックス)という、日清戦争の勃発から講和までを扱った外交記録を遺している。一時期、手に入りにくかったけれども、最近は多くの書店で目にするようになった。

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 こうしたなか、新たな陸奥像はどう描かれているのか。ひとつは、冒頭でも触れた反骨精神を軸にしている点である。幕末に実父が紀州藩で栄達を遂げたあと、藩内抗争に巻き込まれて失脚、義兄とともに不遇をかこつ。陸奥はそうしたなか、坂本龍馬の片腕として活躍の糸口をつかもうとする。しかし坂本の暗殺、明治政府に出仕するものの、薩長出身の同輩に出世で先を越され、西南戦争の折はクーデター計画に関与した廉で投獄される。

 自らの才能に対する強い自負と、それにもかかわらず出世が望めないことに対する焦燥と煩悶が、彼の青年期を染め上げていったといっていい。ただ、五年に及ぶ獄中生活においても、西洋政治思想の翻訳本を読み漁り、自らもベンサムを原書で読み、訳出している。また、出獄後にイギリスへ遊学し、そこでも勉学三昧の暮らしをした。

 イギリスの政党政治を目の当たりにして、彼もまた日本にそれを導入しようと考えるけれども、それもまた出自にかかわらず、政治技術に長けた人物を活躍させる「手段」と捉えたからだろう。強烈な自負心を隠そうともしない彼の個性は、こうした環境のなかで育まれ、怜悧な「カミソリ大臣」を生むことになる。


 ふたつめに、外交官としてだけでなく、維新官僚、政治家としての活躍にも目を向けている点である。新政府に出仕して、地方行政に触れる傍ら、早い段階から廃藩置県や地租改正を主張している。こうした革新さが、同じく若手だった伊藤博文や井上馨らとの関係を深めるきっかけとなった。彼らとの縁は、のちの陸奥の飛躍へとつながっていく。

 陸奥の能力を高く評価した伊藤や井上らの推挙もあって、駐米公使としてメキシコとの間で対等条約締結するなど成果を上げた一方、帰国後は出身の和歌山で衆院選の準備にも取りかかる。自らの出馬は周囲に押し切られるかたちだったけれども、何より注力したのは衆院における自身の権力基盤の形成だった。誰を出馬させれば効率的に当選するか、そうした分析をもとに選挙戦に臨んだのは、当時において稀なことだったというのである。
 こうした活動を通じて、政党、とりわけ自由党との関係を深めた陸奥は、閣僚でも政党に近い存在として、藩閥政治家たちから重視、あるいは警戒される存在となる。


 みっつめに、陸奥の条約改正成功のカギが、交渉の内容やプロセスではなく、何より国内の反対を抑え込むことだったという点である。この視点は、陸奥を考える上でも特に納得できるものだった。

 陸奥の示した改正案は、内容として前任者たちのそれと根本的な違いはなく、その延長上に過ぎないものだった。しかし陸奥は条約を「対等」とする姿勢を強調し、政府内、議会内への根回しを怠らなかった。このときの第二次伊藤内閣がいわゆる「元勲内閣」と呼ばれる実力者によって構成され、安定性が高かったことも幸いした。
 これによって、情報管理も徹底され、新聞などに抜かれるリークもなかった。もちろん、議会との調整や相手国イギリスとの交渉も簡単ではなく、陸奥も妥協を強いられてはいたものの、条約の改正が実現した要因として、国内対策に意を注いだ点は大きい。


 そして『蹇蹇録』では、陸奥が状況を正確に把握して行動したように描かれているけれども、事態はそれほど単純ではなかったことも指摘している。日清戦争は、朝鮮半島をめぐって日清両国が利害対立を抱えたなかで、陸奥が用意周到に進めたものでは必ずしもない。

 陸奥も、朝鮮が甲午農民戦争(東学党の乱)によって内乱が生じた段階で、日清戦争が起きると予想していたわけではなかった。しかし、日本が出兵するなかで、その効果を最大限に生かす方向を見出そうとするなかで、戦争という道を選んだということになる。ただ、状況に引きずられてやむを得ずというよりも、それをうまくコントロールしていったところに陸奥の手腕があった。それは講和交渉、三国干渉の対応にもいえることだろう。


 このように、陸奥はあの時代において日本が果たすことのできる最大の果実を手にすることに大きく貢献した。しかしこの時すでに、彼の生命は尽きかけようとしていた。講和交渉を経て間もなく、療養に入った陸奥は、翌年に外相復帰を果たすもすぐに辞任、そして次の年に死去した。

 日清戦争後の日本について、陸奥はロシアとの協調関係を築くことで東アジアの安定を図ろうと考えていたようである。また、自由党への影響力も強く、総理就任の打診もあった。
 陸奥が、こののちもなお存命していれば、あるいは日本外交、政党政治のかたちも違ったものになったかもしれない。しかしこの両方とも、陸奥の意向とは異なる展開になる。
 日清戦争後は、対露政策で政府も見解が分かれ、紆余曲折を経て日露協商ではなく、日英同盟路線を選び、日露戦争に向かう。自由党は陸奥の死後、伊藤が総裁となる立憲政友会に改組され、政党政治への新たな一歩を踏み出すことになる。

 けれども、陸奥は原敬や小村寿太郎、林董らを見出し、彼らがこののちの日本政治、日本外交を率いていくことになる。原は、陸奥を深く敬愛しながら、政友会にあっては幹部、総裁として組織をまとめ上げ、政権の座に就いた。知略に長けた陸奥も、自負心が強すぎたことから、政党を自ら率いることは難しかったに違いない。そうした陸奥にはできなかったことを原は成し遂げている。
 また小村は陸奥とは異なる日英同盟路線を選択し、日露戦争も勝利に導いた。陸奥と並んで高い評価を受ける外相として記憶されている。林は、幕臣として箱館戦争まで従軍するも、維新後は政府に出仕、日英同盟の交渉実務者、日露戦争後は外相として関係国との協調路線を敷いた。いずれも陸奥と共通するのは、外交官経験があるだけでなく、非薩長出身でもあったことだ。

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 評伝としてうまくまとめられており、陸奥に対する関心を高めてくれる筆致は、読んでいても心地よい。中公新書は評伝にも定評があるけれども、近年は有能な若手研究者を選んで、興味深いテーマの本を世に出している。2018年のあとわずかだけれど、今年も中公新書の良書にたくさん出会えたように思う。

http://www.chuko.co.jp/shinsho/2018/10/102509.html
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