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2018年09月18日13:40

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早島大祐『徳政令』(講談社現代新書、2018年)を読む

 早島大祐『徳政令』(講談社現代新書、2018年)を読む。室町時代に頻発した徳政令をもとに、この時代の借金返済の観念、もっといえば信用関係の姿について描いた本である。

 徳政令というのは、大まかに言って「借金帳消し」を政権が承認するものである。現代の感覚でいえば、数千万円の住宅ローンを組んでいたものを、政府の名によってナシにするようなものだ。こんなことをされては、貸した銀行は商売が成り立たない。

 ここから感じるのは、貸した側が大きな不利益を被るのは明らかなのに、なぜ法令としてまかり通っていたのかということ。そしてそんな無茶な法が、どうして「徳政(徳のある政治)」と呼ばれていたのかという疑問である。日本中世はそれほどに合理性の欠いた時代だったのか。はたまたカネを貸す側が時代劇の悪徳商人よろしく、揃いもそろってとんでもない連中ばかりだったのか。


 結論からいえば、それは間違いである。中世人は非常にしたたかだし、そういう人びとによって社会が構成されていたわけだから、非合理的であるはずがなく、善人と悪人がうまく色分けされていたわけでもない。

 確かに、科学や法制度が十分に発達していなかったことは事実だけれど、怨霊や神託など、その時代に解明できないものですらも、逆に合理性に当てはめてしまうようなところがあった。災害や疫病が広がれば、とりあえず怨霊の仕業ということにして、神社を作ったり、祈祷をしたりすることで人びとの不安を鎮静化させるよう努めた。訴訟で判断がつかなかったら、熱湯に手を突っ込んだり、熱した鉄の棒を掴むなどさせて、火傷しない側を勝たせた。
 そこにはイカサマもあれば、手を突っ込む人間も村が保護していた流浪人などを使うようにするなど、誰もかれも容赦がない。人権意識がないぶん、突き詰めた合理性は非常に恐ろしい。

 現代の価値観に合わないからといって、それを非合理とするのは非常に問題がある。日本中世に限ったことではないけれど、古今東西、そこに社会が存在する以上、因習や迷信も含めた合理性には目を配る必要がある。


 日本中世の社会に話を戻そう。この時期は「自力救済の時代」とも呼ばれる。私たちが暮らす時代と違って、朝廷や幕府は個人や各団体すべてを統制し、保護する存在ではなかった。その範囲は主従関係を結んだ相手、あるいは権威が通用する範囲にとどまっていた。
 したがって、保護されない側にとっては、ほかの有力者に頼るか、自ら生き残る手段を見つけるしかない。武力や暴力もそのひとつだけれど、理屈もまた有効な武器だった。
 そのため、自分のテリトリーにはこのような規則があるのだと、利害が対立した相手に抗弁することも日常的だったと思われる。そしてこの時代、利害が対立する原因のひとつが土地をめぐる問題、それに関連する金銭貸借があった。

 この本で指摘されていたように、当時の土地は広さよりも、そこからどれだけの収益(収穫物)が確保できるか、もっというと土地そのものではなく、収穫物にこそ価値を見出していた。だからこそ、収穫物に見合うだけの金銭との交換が可能だったのである。


 そして利害対立が深刻化していく背景には、室町時代中期において賦役、つまり租税が重くなる一方、天候不順などによって不作の年も多く、やむなく借金をしてやりくりしてきた限界が表れてきたことによる。
 朝廷や幕府は、農村の疲弊や庶民の苦しみなど、そこまで関心はない。むしろ彼らは、儀礼や年中行事に多額の費用を求めていたから、賦役をどんどん重くするしかなかった。

 そうなると発達するのが金融業である。もともと中世にも金融業はあったけれども、その規模は各集落ごとの地域金融程度のものであり、賤業とみなされていた。したがって、専門職としてではなく、荘園領主たちがサイドビジネスとして、地域一帯に苗を貸し付けるなどしていたようである。
 しかし、上述したような天候不順と賦役の増加から、荘園領主自身も疲弊していくことになり、地域金融は崩壊に向かう。そこで新たに台頭していったのが、京を基盤とする「都市銀行」、土倉と呼ばれる専門金融機関であった。

 この土倉の多くが比叡山に代表される寺社勢力の傘下にあったことはよく知られている。それは寺社勢力がこの時代、荘園領主の元締めとして君臨していたからであり、それだけ富の蓄積があったということである。
 地域金融が崩壊し、地方の富が京に集中していくことになる。そうなると疲弊する地域の国人衆(領主層)は、富み栄える土倉への憎悪を募らせていくことになる。物流が発達し、地方から京へのネットワークが緻密になることによって、地域同士の連携も広がっていった。そして「都市の富裕層のみに利益が集中する格差の是正」を求める土一揆の時代が到来する。そのスローガンはまさに「徳政(徳のある政治)」の実現、回復を求めてのことであった。


 一方、土倉が荒稼ぎしていることに目を付けたのが幕府だった。室町幕府は、三代将軍・足利義満の時代に全盛期を迎えたと理解されているけれども、その大きな要因は遣明船の派遣によって経済的に莫大な利益をもたらした「バブル」によってである。
 特に経済政策を講じなくても、遣明船が戻ってくれば、それだけで金ぴかの別荘(鹿苑寺金閣)や相国寺や北山に高さ100メートルを超す巨大な塔を建てるだけの資金が入ってくる。この高さは、安土城や大坂城よりも上であり、30階建前後のビルに相当する。
 ところが、遣明船の停止、復活しても明の政情悪化によってかつての収益が得られなくなると、幕府財政は危機に陥る。その新たな財源となったのが、土倉をはじめとする都市課税であり、室町幕府はこれよりのち、経済的に京・畿内に依存する性格を強めていく。

 土倉を課税対象にできたのは、寺社勢力もまた幕府の影響力に依存せざるを得なくなったことを意味する。土倉は、スポンサーである寺社からの保護も十分に得られなくなり、他方で土一揆の標的にされてしまう結果となり、寺社の傘下から離れる傾向を強めるが、小口化していくことも避けられなくなった。


 幕府の立ち位置にもさらなる変化がみられた。都市課税を強化していくことによって、幕府が畿内全般の統治者へと変わっていったからである。幕府の統治や裁定は、御家人に関係するものから、より広範に深いところまで進んでいく。このことは、幕府の法が一元的に運用されていくことも意味した。「自力救済の時代」から、統一された権威や規範によって社会が運用される社会への過渡期となったのである。

 幕府による訴訟、また土地や金銭トラブルの調停にかかわる業務が増加したことによって、幕府には専門的な官僚層が増えていく。しかしそれが有力守護たちの対立を招き、幕府政治は流動化、そして応仁文明の乱を経て社会は一気に不安定となる。
 かつて徳政令を求めた人たちは、地域経済を担った荘園領主、国人層だった。しかしこの頃になると、地域内での秩序も崩れていき、まとまった行動がしにくくなっていく。替わって現れたのは戦乱や混乱によって都市に流入してきた人びとであり、「徳のある政治」とは名ばかりの略奪行為として徳政の意味合いも変化する。

 「徳政」が求められたのは、社会の秩序、貧富の差の是正という意識が、少なくともそれを支える当事者に共通していたからであった。社会の秩序の根幹は、信用である。借金の帳消しというのは、その是正のための手段であった。
 しかし時代が下っていくことで、借金帳消しそのものが手段ではなく目的化してしまった。それによって真っ先に棄損するのは金銭貸借にかかわる信用である。徳政令が次第に忌避され、近世の到来とともに姿を消した背景には、このような「徳政」をめぐる意識の転換があった。

 そして信用を担保しながら金銭貸借を行うために、当事者たちはこの契約を、仮に徳政令が出たとしても除外するという特約をつけることが当たり前になっていく。貸す側はもちろん、借りる側にしても、一時的に借金が帳消しされるのはありがたいけれど、その結果、二度と資金の融通を受けられなくなっては生活そのものが成り立たなくなる。
 室町時代の徳政令は、「自力救済」から社会の公共化が広まる過程において登場し、戦国大名、織豊政権による中央・地方による公的統治の確立によって、その役目を終える。日本中世の社会を理解する上でも、徳政令の検討は非常に勉強になった。


 早島大祐『徳政令』(講談社現代新書、2018年)は、上述したように室町時代の社会経済史と関連づけながら、徳政令の不思議をうまく解きほぐしている。個人的には非常にためになる一冊だったけれど、同時に読むのに骨が折れた。一般向けとしてはかなりハイレベルな内容だといっていいだろう。情報量も多く、それゆえに半月前に読み終えてもなお、感想がなかなか書けなかった。
 ただ、いい本というのは一度読んだだけで理解できるのではなく、読むたびに新たな発見や理解を得られるものなのかもしれない。そういう意味で、また手に取って熟読したい、そういう一冊である。

https://gendai.ismedia.jp/list/books/gendai-shinsho/9784065129029
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