85年IWGPトーナメントは坂口、藤波、アンドレ・ザ・ジャイアント、ディック・マードックがベスト4に残りました。
6月4日、盛岡・岩手県営体育館ではアンドレが6分49秒、ヒッププレスからの体固めでマードックを破り決勝進出。
6月5日、新潟市体育館では坂口と藤波が対戦し13分41秒、首固めで藤波が丸め込みで坂口からフォール勝ち。82年の第5回MSGシリーズまで坂口には全敗(IWGPでは83年は両者不出場、84年は坂口不出場で対戦なし)でしたが、ようやく荒鷲超えを果たしました。
6月6日、仙台・宮城県スポーツセンター(ノーテレビ)では初代WWFインターナショナル・タッグ王者チームとなった藤波、木村健吾組が王座決定戦で降したマードック、アドリアン・アドニス組の挑戦を受けて初防衛戦を行い、21分2秒、両チームリングアウトの引き分けで藤波、木村健組が初防衛に成功。
6月7日、松本市総合体育館(テレビ生中継、観衆4340人超満員発表)でアンドレと藤波によるトーナメント決定戦が行われました。どう見ても体格差に劣る藤波の不利は否めないカードでしたが…。
このシリーズからスーパー・ストロング・マシンと仲間割れしたショーグン・KYワカマツがアンドレのマネージャーに付いていました。
トップロープとセカンドロープに両腕を挟まれ、動けなくなったアンドレに正面からアタックしていった藤波でしたが、待ち構えていたアンドレの「人間エクゾセミサイル」ビッグブートをカウンターで食らってしまい、体勢を整えたアンドレのヒッププレスを返すことが出来ず、6分17秒、体固めでフォール負け。
アンドレがトーナメントの優勝者となり6月11日、東京体育館で前年度優勝者の猪木と優勝決定戦で対戦、トーナメント準優勝の藤波は同日、ハルク・ホーガンのWWF世界ヘビー級王座への挑戦権が与えられました。
6月11日、東京体育館(テレビ収録)は11474人超満員発表の観客を動員。
この日、前日の10日、新日本プロレス顧問で元国際プロレス社長の吉原功が胃癌の為、入院中の埼玉県浦和市(さいたま市浦和区)の病院で55歳の若さで死去。吉原は前年、早稲田大学レスリング部の先輩である永里高平専務(テレビ朝日から出向)からの招きで新日本の顧問に就任。
国際プロレス時代の部下だったカナダ・カルガリー在住の大剛鉄之助を介して外国人選手のブッカーをしていましたが、国際プロレス社長時代の資金繰りによるストレスと過度の飲酒が身体を蝕んでいたと思われ、無念の死を遂げました。
55歳というと武藤敬司、今年55歳になる蝶野正洋、川田利明(私も同年齢です)と同じであり、改めて早すぎる死が悔やまれます。
吉原氏の追悼セレモニーが行われ、10カウントゴングの弔鐘が鳴らされました。新日本プロレスは83年にフランク・タニー、84年にビンス・マクマホン・シニアと親密関係に会ったプロモーターをIWGP期間中に亡くし「呪われたIWGP」と言われました。
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