mixiユーザー(id:2502883)

2018年03月09日13:10

510 view

先崎彰容『未完の西郷隆盛』(新潮選書、2017年)を読む

 先崎彰容『未完の西郷隆盛』(新潮選書、2017年)読了。この本のユニークなところは、西郷自身に触れることはほとんどなく、西郷が後世において「いかに語られたか」を主眼においているところだ。そして福沢諭吉、中江兆民、頭山満、橋本文三、江藤淳まで、時代も立場も異なる思想家たちが、こぞって西郷を語る。そこでは日本の近代に対する懐疑が、それぞれの論者から表明される。すなわち、西郷という存在そのものが、「果たされなかった近代」として浮かび上がっているのだ。

 こうした問題点は、いずれも現在、私たちが生きる社会にも当てはまる。情報化、経済至上主義、官僚化、天皇制、西洋的価値観との邂逅が、人びとから日常の余裕を奪い、憎悪やニヒリズムを助長し、アイデンティティを喪失させる。

 しかしなぜそれが西郷を通して語られなければならないのか。それは、国粋主義や共産主義といったイデオロギーや政治的主張ではなくして、西郷という「人生」、その存在感ゆえのことではないかと、この本では語られている。特定の主義主張は、何かしらの色がつくけれども、西郷の劇的な生涯はどの色にでも染まる一方、一色に染め上げることができないスケールを感じさせる。

 また、西郷の生きた時代も、さまざまな可能性が含まれていた。明治前期、少なくとも西郷が世を去って四年後、明治十四年の政変で、明治政府は進むべき道を確定させた。近代はもちろん、現代まで続く「この国のかたち」のレールが敷かれたわけである。
 言い換えれば、維新から、西郷が征韓論争に敗れて下野した明治六年、そして西南戦争の明治十年前後は、近代国家のあり方について、さまざまな見方が存在していたわけである。そのただなかにあって、内戦によって散った西郷は、「あり得たかもしれない近代」の象徴とされたのだろう。

 この本は単なる西郷論にとどまらず、近代日本の思想史、精神史という広がりをもつ。
2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する