mixiユーザー(id:2502883)

2018年03月03日12:00

247 view

「大都市」徳島の盛衰と阿波おどり

 明治初年、四国最大の都市は徳島だった。1886(明治19)年の段階で、全国10位の人口を擁していた。この上位には、東京、大阪、京都、次いで名古屋、金沢、そして横浜、広島、神戸、仙台ときて、徳島となる。11位には和歌山も。

 幕末・明治に入って急速に都市化した横浜と神戸がランキングに入っているので、江戸末期の都市ランキングがあれば、徳島はさらに上位にいたと考えていい。全国有数の大都市、それがこの頃の徳島だった。

 なぜそれほどの大都市だったかといえば、地理的要因もある。近世、経済都市として発展していた大坂に近く、畿内の守りとしても重視される土地だった。戦国時代、阿波(徳島)を本拠としていた三好氏は、船を利用して軍勢を畿内に入れ、政治の実権を握った。鉄道も自動車もない時代、船は大量動員が可能な輸送手段だったから、阿波の戦略的価値は極めて高かったといえる。
 その後、阿波は蜂須賀氏が治めることとなり、同時に淡路も領国とされた。この結果、阿波・徳島藩は、播磨灘、大阪湾、紀伊水道に接することになる。対岸には和歌山があり、これは紀州徳川家が治めていたけれど、都市としての和歌山も、徳島と同様の規模を誇っていた。

 大坂をはじめとする畿内への交通の要衝としても、徳島は重要な土地だった。外港に小松島があり、ここは金長のタヌキでも有名である。明治に入っても、鉄道が敷設され、四国から畿内への交易の窓口となっていた。

 ところが、近代化のなかで徳島の地理的アドバンテージは少なくなっていく。鉄道の拠点は香川の高松に移り、「四国の玄関口」としての地位を明け渡すことになった。戦後にかけて、四国の都市人口では愛媛の松山がこれをリードすることになる。

 そうしたなかでも、全国的に高い知名度を誇っているのが、夏に開催される「阿波おどり」である。江戸時代初期から伝わる伝統芸能といわれることもあるが、いまのようなかたちになったのは、昭和に入ってからではないだろうか。もともと、その土地ごとに行われていた盆踊りが集約され、自治体や地元企業が協賛することで、あのような規模になっていったと思われる。
 特徴としては、ただ漫然と踊っているのではなく、それぞれのグループが「連」を結成し、趣向を凝らしているところだ。それを見る側も、「連」単位で好みが分かれていたりする。そして、徳島出身の人たちが、東京など各地で阿波おどりをするようになっていて、高円寺などでも夏の風物詩になっている。これは高知のよさこい祭りでもみられる光景だ。

 他方で、都市としての徳島は、他地域以上に衰退しつつある。徳島駅前はそれなりにまとまっているものの、もともと繁華街の中心だった商店街は、昼間でもシャッターが下りていて閑散としている。バブル期に再開発計画が持ち上がったものの、それがとん挫。そして長く放置されていまに至っているという。
 都市のつくりとしては、さすが往年の風格というか、城下町としてのまとまりがある。中心部には吉野川の支流があって、徳島城の周囲に街が広がっている。市内電車が走っていても違和感ない。

 近年は、「マチアソビ」というイベントも定着するようになり、徳島は阿波おどりとアニメの二本柱で街おこしを進めている。去年の夏、阿波おどりが終わったあとに徳島を訪れたけれど、街ではあちこちアニメポスターが貼られていた。
 ただ、阿波おどりに関しては、訪れる人に対して宿泊施設が絶対的に少なく、それを間近で楽しめる桟敷席も、地元企業への配分などがあって一般への確保が足りていない。つまり見込めるはずの収益が十分に得られていない。
 また、鎌倉の花火大会でも起きたことだけれど、自治体からの補助金頼みでのイベント開催は、場合によって足かせにもなりかねない。自治体や市議会などが補助金の見直し、あるいは地元企業のスポンサー撤退などがあるだけで、開催そのものが危ぶまれる可能性もあるからだ。

 阿波おどりは、全国の夏祭りのなかでも、トップクラスの知名度と動員数を誇る。それは大きな強みであると同時に、時代に応じた発展の仕方を当事者自ら模索し続けていかないと、イベントそのものが祭りの盛り上がりとは別の理由で打ち切らざるを得ないということにもなりかねない。

-----

阿波踊り主催の観光協会破産へ
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=5010330
2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する