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2017年12月13日11:00

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ETV特集『ロシア革命 100年後の真実』その3/晩年のレーニン〜現代の革命評価

(続き)

レーニンは、根本的政策を転換することになる。

1921年3/21 食料徴発制度廃止を含む「ネップ(新経済政策)」発令。
国に納付した残りの生産物を農民が自由に取引できるようにした。市場経済原理の部分的復活である。
併せて、国有企業を民間に戻した。
ネップによって、ロシアは新しい社会主義国建設への道を辿り始める。

ボルジュゴフは付け加えた、
「ネップによって経済は、1925年には1913年レベルまで段階的回復を遂げる。
この変革は、(経済政策だけでなく)政権自体にも何れ変革を促すという危機を孕んだ」。
経済の自由化政策の後、政治的自由の復活、言論・出版の自由を求める声が民間から発せられるようになるのは必然である。
レーニンは、政権崩壊に繋がると怖れ、一層の反革命分子弾圧強化に向かう。

そのターゲットは以下の2つ、

1.)教会(修道院含む)
1922年2月 教会の資産没収と破壊を命令。
反抗する教会の聖堂など建造物を破壊、司祭らリーダーを処刑した。

2.)知識人
1922年5月 反革命的インテリゲンチャ―(作家,教授など)を国外追放。
これを「ロシアの浄化」と呼んだ。

ボルジュゴフは言う、
「プロレタリアート独裁の基礎は暴力の原理。自分たちの権力やイデオロギーを受け容れない人々は暴力で排除する。
同じマルクス主義でも、議会制社会民主主義を選択した国もある。
ボリシェビキは革命の暴力の最も過激な路線を選んだのである」。

1922年 ソヴィエト社会主義共和国連邦建国。
反乱の暴力的鎮圧がほぼ済んだところで、新国家成立を世界に打ち出した。
資本家のいない平等な社会、失業者ゼロ、教育・医療費用は無料、などを標榜。全てを国家が計画し管理する社会が、世界で初めて誕生した。
この後70年間、世界を2分する社会主義圏の盟主となった。


同1922年 レーニン、脳梗塞で倒れる。
しばらくは、モスクワ郊外の家のベッドから、党への指令を発し続けた。

晩年のレーニンは「協同組合」についての考察をしていた。
「農民を文明化された協同組合員にすること、完全な社会主義国になるためには、この文化革命を必要としている。」(『レーニン全集』より)
レーニンは農民の文化水準を引き上げ、新しい社会主義的人材を創造していくことが重要だと考えた。

レーニンは思考錯誤を続けた、
「偉大で国難な事業には、何度でも最初からやり直す能力が必要だ。袋小路に入ったら、もう一度やり直せ、そしてもう10回やり直して、目的を達成せよ」。(同)

1924年1/21 レーニン没す。52歳。

レーニンを引き継いだスターリンは、その後、「ネップ」廃止、計画経済推進、反対派粛清、独裁を強化していく。
その道は晩年のレーニンが描いた理想とは違っていた。


社会主義革命から100年、ソヴィエト崩壊から26年、:現代のロシア人の中で、レーニンの革命や彼の思想について、評価は固まっていない。

2017年3月の世論調査では、
・革命肯定 48%
・革命否定 32%

方や、革命は教育も医療も無料にしてくれた。今は億万長者もいるが、貧しい人はほったらかしだ、と言う人がいる。
方や、ロシア革命の負の遺産(膨大な犠牲者を出し、言論の自由を奪った)を後世に伝えようとする人もいる。
様々な歴史家、思想家、政治家も、多様な発言をしている。
プーチン大統領の今年の関連発言は如何にも表面的で、革命評価に深入りすることを避けようとしているのが判る。ただ、今年は、政府主催の革命記念行事は行われなかった。

和田和樹は、晩年のレーニンの思想に対して言う、
「一人一人の考え方が大事だ。皆文明化された人間として勉強し、成長していく。そういうやり方を通じ、話し合いを通じて、協同組合を作っていく。そういう底辺からの組織の上に社会主義ができなければいけない。そう(晩年の)レーニンは言った。
しかし、それは走りだした汽車から飛び降りるようなことだ。もう汽車は走りだしてしまっている。それじゃマズイとレーニンは思っても、汽車から飛び降りて別の道を探そうとするなどということは、事実上不可能だった」。

ボルジュゴフによれば、「ロシア革命は、内戦も含めて、1,000万〜1,200万人が犠牲となった」。

私は思う、そうした犠牲者がどれ程いるか、レーニンの晩年の発言は思いを致していないように見える。
何度でも過ちはやり直せばよい、と言うが、そんなことが果たして可能だろうか。また1,000万の犠牲を費やせばよいとでも言うのか。
それは不可能であるから、彼は次々訪れる危機に対して、強権的手法を取り続けてこざるを得なかったのではないのか。
そのことを指して、和田和樹は「走っている汽車から飛び降りるようなこと」と厳しい評価をしたのだろう。

 
ディレクター 馬場朝子,吉峯美和
撮影 小口久代,エフゲニー・コクーセフ

2017年/日本

(end)
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