カナダの密林王グレート・アントニオはその存在そのものがファンタジーでした。
61年から77年迄の16年間、一体どうやって生活して来たのか、少なくとも私がプロレスを見始めた74年以降、ゴング、プロレス誌、東スポ等でアントニオが試合をしていたというニュースは見たことがありません。
アントニオはとある昼間に銀座の歩行者天国に姿を現しテーブルに並べられた山盛りの食べ物を食い散らかして代金を支払わなかったなど、各地で無銭飲食をし、「ニュージャパンプロレス、イノキ、ウォーッ!」と叫んで店を出て、請求書が新日本プロレスに回って来る、という有り様というレポートが東スポやゴングにまことしやかに掲載されました。(全日本寄りと言われたプロレス誌はあまり食いつかず)
77年11月4日、札幌中島スポーツセンターではメインで猪木、長州組vsアンドレ・ザ・ジャイアント、クルト・フォン・ストロハイム組が実現。1-1からノーコンテストとなっています。
11月9日、室蘭市体育館では猪木がアンドレとノンタイトル60分1本勝負で対戦。試合前にアントニオが会場に姿を現し、それをアンドレが遠くから見つめるというシチュエーションになりましたが両者の絡みは特にありませんでした。
試合はアンドレが猪木をコーナーポストに押し込み、突進してきたところ、猪木が鮮やかな前方回転エビ固めを見せて観客席が大きく沸きましたが19分53秒に両者リングアウトの引き分けとなっています。
この日アントニオは16年半前の神宮外苑同様、室蘭市で道南バスの観光バスを引っ張って動かすデモンストレーションを見せています。この模様は室蘭大会と同じ日の11日のワールドプロレスリングの中で放送されました。
度重なる挑発的行為(?)に激怒した猪木はついに我慢の限界に来たのか、「リングに上がって来い!」とアントニオの参戦を認める発言をしました。
シリーズ最終戦の12月8日、蔵前国技館大会は既発表として坂口、ストロング小林組vsパット・パターソン、ストロハイム組の北米タッグ選手権試合、ウィリエム・ルスカvsバッファロー・アレンの柔道ジャケットマッチの2大決戦が出されていましたが、メインは「アントニオ猪木vs?」となっていました。
シリーズ開幕前はWWWFから誰か大物が来るか?と期待されていましたが、アントニオの乱入劇により猪木vsアントニオの一戦にほぼこの段階で確定。
一方で馬場の全日本プロレスは8月の段階で早くも2年前の75年末に行われたオープン選手権のタッグ版を年末に開催すると発表。
「世界オープン・タッグ選手権」と題しドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンクのザ・ファンクス、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シーク組、ビル・ロビンソン、ホースト・ホフマン組、提携先の国際プロレスからラッシャー木村、グレート草津組等の参加が発表され新日本との落差を感じさせました。
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