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2017年07月14日10:31

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「抵抗」する人たち 政府や社会への異議申し立てとその方法

 戦前・戦中期の日本でも、体制に反発したり、政府の方針に疑問を呈する人たちはいた。あるいはそういう意識がなくても、自らの研究や発言がもとで批判を受け、職を追われる人もいた。
 もちろんなかには、テロや暗殺、革命を計画して検挙された者も含まれる。しかし、反戦や権利の拡大を求めた人たちも、社会が戦時下に置かれるなかで、次第に許容されなくなっていく。

 こうしたなかで、知識人の多くは「良心の沈黙」という姿勢をとった。国粋主義者や官憲に目をつけられないように、表だった批判を控え、社会に影響を与えない程度の研究を続けるなどした。なかには、政府に積極的な協力を行う言論人もいた。
 こうした時代の人びとを、後世から詰るべきではない。なぜなら、彼らにも守るべき家庭や地位があった。あるいは、時代の風潮そのものに共感する面も存在したに違いない。

 たとえば、昭和初期は政党政治が全盛期を迎えた一方で、金権腐敗や格差の拡大という事態のなかで、個人主義や自由主義を疑問視する声が高まっていた。恐慌や長引く戦争による物資の不足のなかで、社会を安定させるためには個人の欲望よりも共同体の維持のために、個々の権利を抑制すべきという主張は、当時としてそれなりに説得力を持っていた。

 他方で、体制にことさら歯向かうわけではないにしても、規制を強める政府やそれに伴ってますます閉鎖的となる社会に苦言を呈す人もいた。それが反体制に映らないようにするにはどうすべきか。その論説やロジックには細心の注意が払われた。
 繰り返しになるかもしれないけれど、後世からみれば体制におもねり、日和ったように見えるかもしれない彼らの態度も、実はその時代においてはギリギリの選択であったことにも注意を払いたい。そこからうかがえるのは、体制に従順なようにみえて、本質を換骨奪胎させるような工夫であり、苦心の跡なのである。

 自らの信念をただごり押しするのではなく、普遍的な価値や理念に基づいて、政府や社会に異議申し立てを行う人たち。ある人は弾圧を受け、またある人は非業の最期を遂げる。しかし、官憲から監視を受けながらも、さまざまな工夫をこらして筆を折らず、口をつぐまない人もいた。
 それぞれの「抵抗」について、私たちはどのように評価をし、理解をしていくべきなのか。情に訴えかけるドラマチックな描き方ではなく、それぞれの時代や社会、生き方や問題意識に触れながら、彼らの声に耳を傾けること。決して簡単ではないけれど、必要なことのように思われる。
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