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2017年06月27日13:07

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季節や恋について 詩における「飽き」とその周辺

 私には詩的な才能が全くないので、俳句や詩文みたいなものは苦手であり、ましてや創作などとてもとても、という感じなのだけれど、日本の歴史、とりわけ中世以前の世界に踏み込む場合、どうしてもそこに触れないわけにはいかない。ただ、先人たちの歌はすっと沁みてくるものも少なくないと、近頃は感じるようになった。これも歳をとったせいかもしれない。

 ところで、季語と実際の季節のズレには、確かに暦の問題もあるとは思うのだけれど、それだけがすべてではない。というのも、句は普通、その時期よりも少し前に詠むものだからだ。
 具体的にいうと、春の句を詠むのは、春爛漫の頃より少し前。夏の句も、梅雨明けしてセミがじゃんじゃん鳴いているときに詠むものではない。まだ肌寒い時期、春をイメージしたもの、本格的な夏を前にして詠むもの、それが句である。

 逆に、春の盛りや真夏に、その時期を詠むのは「飽き」がくるとされる。詩情というのは文字通り、心の動きを言葉にするものだから、大雪が降っているときに、冬を思う必要はないのだ。
 もちろん、雪が降っていても詩情が浮かぶこともある。しかしこのときの心の動きは、雪を前にしながらも春の兆しを感じるものであって、冬の寒さを語るものとは違う。

 これは何も季節に限らない。詩句には同じく恋の歌というものもあるけれど、これらのほとんどは成熟した恋愛を歌うのではなく、片思いや成熟する前の慕情、あるいは失った恋、破れた愛情を歌っている。それはそうだ。両想いになったのなら、勝手に幸せになればいいわけで、その喜びを歌にまでしてねちねち聞かせられては、たまったものではない。

 詩や句は、恋にしても季節にしても、結ばれる前や失われたときに詠むものであり、そうであるからこそ、聞く側の胸を打つ。

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季語を決めているのは誰?
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=128&from=diary&id=4640187
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