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2017年06月12日12:09

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直接民主制の「理想」と責任

 民主政治を語るとき、私たちは住民一人ひとりが決定権をもつ直接民主制を理想と考える。住民たちが代表者を選び、そのなかで審議を行う間接民主制と比較すれば、より民衆の意向を反映させやすい。原理的にもこれは明らかだ。

 しかしながら、参加住民が多数になればなるほど、総員の意思を確認する作業は、手間と時間がかかっていく。したがって現代日本では、地方の首長・議会に対する解職請求(リコール)や、憲法改正のための国民投票など、ごく一部のみ、これを採用している。

 もっとも、地方自治法によれば、条例によって議会を置かず、有権者による総会(町村総会)を設けることができるとの定めがある。この町村総会は、地方自治法下において一例のみ、戦前の町村制においても一例、合計二例しかない。
 しかも戦後の例も、近隣自治体との合併前に数年続けられただけで、議会を解散し、町村総会を設置するというプロセスを経た自治体はこれまでのところ例がない。


 直接民主制は理想的と上で述べたけれど、近代以降、それを実施するのはコスト以外にも困難がある。それは、行政の中身が複雑で専門的になっているため、有権者すべてがそれを理解し、判断できない可能性があるという点だ。たとえば、道路や水道などの整備といったインフラは、もちろん必要なものには違いない。しかし、そこにつける予算はどの程度が適当なのか。理解できる人はそう多くはないだろう。

 間接民主制の場合、住民の意思と予算や条例の間には、彼らの代表者(地方の首長・議員)を介している。それゆえに、その決定で不利益を被ったり、不満があれば、彼らをリコールしたり、次の選挙で支持しないという姿勢を示せる。決定における責任は、すべてでないにしても代表者が負うということになる。

 しかし直接民主制では、その決定がダイレクトな住民意思に基づくものであるから、責任は彼ら自身に帰することになる。政治活動に熱心な人たちからすれば、直接民主制は理想的に映るかもしれないけれど、そういう面倒くさいことは専門家に任せたい人にとって、あらゆる政治的責任を自らに負わせるシステムは、かえって忌避の対象になるのではないか。直接民主制が、自治の理想と言われている反面、根づかない理由もそこに一因があるように思われる。

 高知県大川村の試みは、過疎が進む地方において特に注目すべき事柄だろう。しかしながら、過疎が進行していけばやがて、村議のなり手云々という以上に、自治体そのものの存続が危ぶまれる事態も十分想定できる。町村総会の設置とともに、近隣自治体との合併や統合という選択肢も、同時に進めていく必要もあるのだろう。

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町村総会、大川村が検討表明
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=4616296
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