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2017年06月11日16:12

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選挙権・参政権とは何か 歴史的経緯から考える

 選挙権の歴史は、市民の政治参加が求められる時代に、その資格とは何かが問われ続けた過程といってもいい。

 学校教育などで私たちが学んできたものとして、近代日本の制限選挙がある。ひとつは性別で、女性の選挙権は戦後になるまで実現しなかった。そして財産・納税の有無も、男子普通選挙が実現する昭和初期まで、要件に含まれていた。
 ほかにも、海外では人種や宗教の違いで選別を受けてきた歴史がある。

 選挙権はなぜ制限をつけられてきたのだろうか。そこには、議会の議員を選ぶにせよ、住民投票を行うにせよ、何らかの意思を表明するには、一定の財産や教養がなければ社会参加をしているとはみなせないと考えられていたからと思われる。たとえば、納税は国や自治体を金銭で支えていることを示すものだから、意思を表明できる資格がある、といったように。「カネを出しているのだから、クチも出せる」というわけだ。

 ただ、こうした納税要件のハードルは次第に下がっていく。しかし普通選挙の実現が近づいてきた段階でも、労働などで富を生まない学生は適用すべきか否か、といった議論も続けられた。ここでも何らかの社会貢献と選挙権をバーターと捉える志向を垣間見ることができる。


 日本にかんする限り、女性の参政権が長く認められなかった背景も、一般的に彼らは家庭に入り、直接的に賃金を得る立場ではないという見方があったからだろうと思われる。しかし、社会が発展するなかで、女性の生き方も多様化していく。賃金を得て生計を立たせる女性も増えていった。そして戦争によって若い男性の多くが戦地に送られたりすると、女性が労働力を担うようにもなった。こうしたことから、社会貢献と選挙権の有無について、線引きが難しくなった。

 かわって、選挙権は国民固有の権利という考え方が一般的となっていく。これによれば、性別や資産、教養の違いなどは問題にならなくなる。識字率も高く、誰しも社会との関与を多かれ少なかれ持っているのだとすれば、その一員として参政権があるのも当然だろう。戦後、国民主権が前提となり、主権を行使する根拠としてもまた、選挙権は不可欠とされた。

 問題は、そうした判断力が十分でない人びとに対して、選挙権の扱いをどうすべきかという点である。

 意外に思われるかもしれないけれど、知的障害や心神喪失と認められた人びとに対する選挙権は、21世紀になるまで制限を受けていた。これは日本に限らず、ヨーロッパでも同様だったけれども、多くは欠格要因から除外され、選挙権を回復している。

 この根拠は、上述したように選挙権、参政権が固有の権利であるのはもちろん、障害の認定は強制ではない上に、判断力の有無もまた客観的な基準をつけにくいというのも理由だと思われる。そもそも、判断力などという基準をつけようとする時点で、参政権についても恣意的な制限を加える余地を残す。

 そういう意味で、参政権の欠格条項はなるべく少ないに越したことはない。ただ欠格条項に該当しないにもかかわらず、実質的に参政権が得られないケースもある。
 それは、特定の住所を持たない人たちである。ホームレスや、寝泊りするところを転々とする人たちには、住民登録が万全ではないから、そもそも投票用紙が届かない。彼らに対する配慮をどうすべきかという点も、大きな課題である。


 選挙権、参政権については、その是非はともかくとして、人びとがどういう性質の権利であると認識してきたのか、歴史を踏まえてみると興味深いテーマである。私たちはそれを自明のものと考えがちだけれど、そこに至るまでには紆余曲折があり、その時々にはそれなりの判断がはたらいている。
 社会の仕組みや民主主義とは何かを考える上でも、選挙権はいい教材となる。

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■知的障害の男性、投票できず 選管が配慮不足認め謝罪
(朝日新聞デジタル - 06月10日 20:55)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4614902
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