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2017年06月06日13:34

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教養と大学改革

 苅部直『「維新革命」への道』(新潮選書、2017年)を読んでいる。この本は、明治維新を出発点として「文明」とは何かを問うている。

 一般的に私たちは、幕末・維新を契機として日本の近代が開かれ、西洋文明を吸収してこんにちの社会を築き上げていったと捉えている。それは一面において正しい。
 しかしながら、ペリーの来航や戊辰戦争を経た瞬間から、私たちは突然、西洋の社会制度や仕組み、技術や文化について関心を持つようになったわけではない。それを理解し、価値を見出すのにも、人びとが教養や知識をもち、それに基づく社会が形成されていなければいけない。
 では、そのような知識はいつどのように広がり、社会はどういった過程で生まれていったのか。時間をさかのぼるようにして、江戸時代における「文明」への関心、合理的思考の構築と実践について検討をしていく。

 読んでいるところで興味深く感じたのは、江戸時代の学問は主に儒学(朱子学)を中心として展開していったのだけれども、それは何も公儀(幕府や諸藩)が支配権力を正当化するために普及させたのではなかったという指摘である。その実態は、民間で活躍した儒学者たちによって朱子学が広がり、片やそれを批判的に捉える知的環境も整えられていった。その過程で、幕府や諸藩が学問所や藩校を設置し、儒学が「官学」となっていったのだという。
 実際、江戸時代初期における朱子学の地位は、公的にほとんど認められていなかった。林羅山を祖とする幕府御用の朱子学者たちは、当初、儒家ではなく僧侶としての立場を強いられたままだった。僧形から還俗が許されるようになったのも、17世紀末のことである。それは江戸幕府が開かれて100年近く経った頃であった。

 つまりこの間、儒学に代表される学問は、民間で広がり、深められていったのである。それは江戸時代の社会が、新田開発と都市化によって豊かとなり、豪農や商人たちによって「学ぶ」という意識が高まっていったことと無関係ではない。儒学者や国学者は、富裕層らをスポンサーとして学問に励み、また裕福な農家や商人たちから、新たな学者が生まれるようにもなった。そうして知的ネットワークは、社会全体を覆うようになっていったのである。

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 日本の大学は、近代以降、教会から発展した西洋の大学機構を模して誕生した。もっとも、当初は官立大学(帝大)がその中心に据えられていたけれども、慶應義塾や同志社など、私塾をルーツとする学校も、こんにちにおいて少なくない。

 西洋的な教育機関をモデルとしながらも、大学は江戸時代における官民の学問所、教養を得ようとする人びとの関心がこれを支えてきたともいえる。「大学の勉強は何の役にも立たない」「教養よりも技術を学ぶほうが大切」という言葉もしばしば聞かれるけれども、そもそも学問自体が職人たちの技術とは別に、発展をみてきたという事実が無視されているのではないか。

 もちろん、高等教育は多様であっていい。語学や高度な技術を習得できる機会が得られれば、就職だけでなく、活躍できる機会も増えるだろう。しかし大学が「学問をする場所」であるとすれば、何でもかんでもそうした技術や資格習得に重きを置けばいいというわけではない。シェイクスピアや古事記の研究、ヘーゲルや西田幾多郎の思想をいくら学んだところで、大金持ちにはなれない。基礎研究をやるよりも、需要の高い商品開発に取り組んだほうが収益は高くなる。

 それでも教養がなぜ必要なのか。

 江戸時代、商売で成功した人たちがどうして学問に傾倒していったのか。西洋文明をいち早く吸収できたのはなぜか。問いを問いで返すのも何だけれど、私はそこにヒントが隠されているように思う。学問や教養は、私たちが普通に生きるだけでは得られにくい、異なる視点や考え方、あるいは単純に知的好奇心を高められるだけの世界を提供してくれる。そのことは直接的ではないにしても、生き方のさまざまな可能性をもたらしてくれるのではないだろうか。

 大学改革が議論されるなかで、ともすれば専門性に特化し、成功したところをモデルとした流れが作られやすいけれども、ときに立ち止まって、江戸時代に教養を求めた人たちに思いを致す余裕も持っておきたい。

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■世界大学ランク日本版で23位!会津大学って? 開校30年足らず、入試も独特…評価の理由を調べました
(ウィズニュース - 06月06日 07:02)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=220&from=diary&id=4606805
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