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2017年06月03日15:26

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平成版「官僚たちの夏」?

 城山三郎の代表作『官僚たちの夏』は、高度経済成長を牽引した通産官僚たちの物語である。登場人物たちは、実際のモデルも存在する。政財界からの横やりを跳ね返し、自らの信念をもとに産業育成のための政策遂行にまい進していくという筋書きだ。

 この物語で描かれている官僚たちは、自らを国家、国民の公僕であると任じ、権力や影響力を振りかざす政治家や財界の大物たちと対峙する。彼らからの圧力や人事介入は、不当なものであり、天下国家を語る官僚たちにとって障害でしかない。
 高度成長期の官僚たちは、確かに積極的な経済政策を打ちだし、これを実現する原動力でもあった。もっとも、現在のような規制緩和や自由貿易を推進するのとは真逆で、官民協調を前提として法的規制を作って国内産業の保護、育成を図った。それゆえに、官の意向はいまと比べものにならないほど大きかったのである。

 現在、官邸に抵抗する官僚たちもまた、構図としては『官僚たちの夏』のそれに近い。1990年以降の行政改革、省庁再編、政治主導という流れのなかで、官邸は各省庁の幹部人事を掌握し、内閣人事局を設置した。それは官僚側からみれば、自らの信念や政策を邪魔するものに映る。


 しかし、見方を替えれば構図も違ってくる。行政改革や省庁再編は、縦割りによって生じた弊害を解消するためのものでもあった。省庁同士が権限をめぐって縄張り争いを続けることで、政策プロセスが複雑化し、無駄も生じやすくなった。そこで首相に強い権限を与えることで、組織の硬直化を防ぎ、柔軟な政策遂行を可能にしようとしたのである。

 このような政治主導を正当化する根拠は何か。それは、首相をはじめとする内閣の構成員の多くは、選挙の洗礼を受けた国会議員である、というところにある。つまり、国民(有権者)の代表が、官僚をコントロールする。官僚は、確かに国民に奉仕する公僕とされるけれども、昇進やその権限には有権者の支持が直接的にはたらいているわけではない。
 『官僚たちの夏』に登場する高級官僚たちも、そうした視点からすれば、省益に固執する勢力と捉えることも可能である。


 もっとも、政権が長期化した場合、政治主導も意識するしないにかかわらず、自らへの利益誘導になりかねない要因も含まれている。1990年代に政治改革が叫ばれた時期は、政権が三年未満ということがほとんどであり、それゆえに「強い内閣」への期待があった。
 また、省庁再編を経て長期政権を実現させた2000年代の小泉政権期であっても、その間は必ずしも順風だったわけではない。政権内、党内、そして国会は終盤を除けば、常に不安定だった。
 つまり、安倍内閣が長期にわたって安定した政権を維持していることが、逆に政治主導の歪みとなってきているのではないか、というのがいまの状況なのである。

 個人的な見解を述べれば、安倍政権も発足時の勢いはすでになく、ピークは過ぎたと考えられる。これからはどういったタイミングで幕引きが図られるか、ということが焦点として浮かんでくることになるだろう。
 ただし、よほどのスキャンダルや選挙での大敗がない限り、早期退陣は考えにくい。後継者が名乗りを挙げ、野党が勢いを盛り返すような展開が、いまのところ想定できないことも、安倍政権の「長い黄昏」を予感させるものになっている。


 今回の官邸と一部官僚の抵抗は、確かに『官僚たちの夏』の構図で語ろうと思えば語れるのかもしれない。しかしそのためには、語る側が「官僚主導」を是とする立場でい続けなければ説得力に欠ける。反・安倍政権というスタンスでのみ、官僚の言い分を鵜呑みにしてしまっては、整合性がない。

 『官僚たちの夏』が成立するのは、高度成長という時代背景と、政官財界が自民党政権を前提に、その内部で権力闘争が繰り返されていたという状況において、「相対的に」官僚の行動が国益に合致したからに他ならない。それはある種の「物語」であって、いまの制度に照らし合わせても合理的であるとは言い難い。
 政治主導、官邸主導に行き過ぎがあったとすれば、どのような条件に置いて問題が生じやすいのか。それを是正するには、どのような対策が求められるのか。制度改革には、ときの政権に対する主観をなるべく避けた議論が求められる。

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