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2016年12月05日18:18

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クラーナハ展/国立西洋美術館

(続き)

11/29(火)、両国のすみだ北斎美術館の後、昨晩コンサートを聴く為にいた上野にまた出掛ける。
今度は、国立西洋美術館である。
やっているのは「クラーナハ展〜500年後の誘惑」。
・会期 2016/10/15〜2017/1/15
この後、大阪国立国際美術館に巡回する。

ルカス・クラーナハ(1472-1553)は北方ルネサンスを代表するドイツ人画家の1人。
偉大な画業の割に日本では知名度が低い。
単品の単発展示はともかく、日本では初の総合的クラーナハ展となるらしい。
したがって、まずは一応その人生に、極く簡単にでも触れておきたい。

1472年にドイツ・クローナハ(名前の由来)で生まれ、1500年過ぎ、ウィーンでの画家として活動で、歴史に初めて名が現れる。
1前年の1471年にアルブレヒト・デュ―ラー(1471-1528)が生まれている。ドイツ・ルネサンスはこの2人が牽引する事になる。
「修業時代」と言っていいのだろうが、クローナハからウィーンの間の事は殆ど判っていない。

1505年、33歳の時、ザクセン選帝侯フリードリヒ賢明侯に招かれ、宮廷画家として公国首都ヴィッテンベルクに赴き、そこに50年間住む。
賢明侯は1502年にヴィッテンベルクに大学を創設している。侯の学芸を庇護する諸政策の為、この地には人文学者や芸術家等が集まり、政治・文化の中心都市となる。
マルティン・ルター(1483-1546)も、この開設されたばかりの大学で神学と哲学の教鞭をとった。
彼による宗教改革(1517〜)も、ここヴィッテンベルクが震源地となったのである。
ここでの交流が、クラーナハとルターのその後の長く深い関係の礎となる。

クラーナハは賢明侯の指示にただ従うだけでなく、自立した事業家に成長した。
時代に先駆け大型絵画工房を開設し、貴族だけでなく勃興してきた市民からの大量の注文に応対する体制を作った。息子、同名ルカス(1515-86)も工房経営に加わる。
それ以外にも、印刷所経営、書店や薬局の経営、後には3度も市長になった。一宮廷画家とは違う幅を持った人だったようだ。

1553年、計3代の選帝侯に付き、ヴァイマールで81歳で没。


クラーナハというと、まず頭に浮かぶのが、あのエロティックな裸体画である。そして、ルターの肖像画。
この相反すると言えそうな2つのアイテムについて、少し考えてみたい。

イタリア・ルネサンスは古代ギリシア・ローマ文化の復興がテーマである。
そこにはキリスト教で禁じられていた男女の裸体が、理想的な美として提示されていた。
フィレンツェに始まったネオ・プラトニズムにより、キリスト教と古代ギリシア・ローマの異教とは論理的な合体を見て、ビーナス等のヌードがイタリア中に拡がるのである。
そして、それはアルプスを越えてドイツにも到来した。
知と文化の都市ヴィッテンベルクでは、いち早くこうした潮流が話題になった。
1509年、クラーナハは、アルプス以北で初めて、異教の女神の等身大裸体像を彩色で描いた。
《ヴィーナスとキューピッド》がそれで、今展には来ていないが、その直前1508ないし09年に彼は同題同構造の木版画を作成しており、それが展示されている。モノクロ版だが、原版の調査によって多色刷りも試みられていた事が判っている。
ドイツ・ルネサンスとして一時代を画する画業をクラーナハは行ったのである。
これ以外にも、全身肖像画や、多色刷り木版等、彼の革新性は多岐に亘る。

この2作品のビーナスはイタリア風の豊満な人体をしているが、その後次第にクラナッハ好みというか、ドイツ人好みのスレンダーな体つきに変化していく。
芸術は作者独りが創作するものではない、受容する者達の思想や嗜好が芸術家を通して顕現させるものである。
注文する人、買う人がいるから、絵は描かれる。
イタリア・ルネサンスのヌードが理想を求めたのに対し、クラーナハのそれは、世俗的な裸体とも言える。
理想、即ち手の届かぬものに対し、見回せば身近にもありそうな身体、そんな想像をさせたに違いない。
この頃勃興してきた裕福な市民階層が、自宅にこうした裸体画を求めたるようになったであろう。自宅と言っても客間ではない、書斎や寝室だたろう。
クラーナハの裸体画に小さなサイズのものが多いのは、こうした訳がある。

宗教改革によって、プロテスタント国では、宗教画の需要が大きく減る。プロテスタントは、聖母マリアさえも信仰の対象とはしなかったように、聖人信仰を禁じた。同時に偶像崇拝を止めさせた。
絵画の最大発注者だった教会からの需要が激減し、その代わりに、裕福な市民階層が絵の注文者となった。彼等は、イタリア・ルネサンスの潮流に感化され、異教の女神や歴史上のヒロインの図像を求めた。
事業者としての視野を持っていたクラーナハがこうした趨勢に気付かない訳はない。
彼は、ビーナスやルクレツィア等の裸身を、ドイツ市民好みに変え、需要の拡大を図った。
そして、それら作品は、淫らなものとしてでなく、含意する(表向きの)教訓も付けて提供されたのである。つまり、あなたも、気を付けないと、ユディトに首を掻き切られたホロフェルネスになってしまうよ、と。
こうした道徳的仮面によって、市民も安心して裸体画を買い求める事ができるようになるのである。
つまり、彼の官能的な絵は、警告を発しながら欲望をそそっているのである。
このアンバランスはクラーナハの1面として、大変に興味深い。

こうした需要創造の循環の中で、彼の大型工房は、大量の受注をこなした。
工房作にも、彼のサインマークである、宝石をくわえた有翼のヘビは、まるで商標のように描き加えられた。
工房の共同制作者が描き易いように、モチーフやテーマのパターン化も併せて進めた。
彼が描く女性達は、体つきだけでなく顔の造作表情も似ている。着ている衣装も宝飾品類も同様である。
クラーナハは恐らく初めてブランド戦略を大々的に展開した事業者でもあったろう。


クラーナハがルターの肖像画を何枚描いたのかは知らない。
単独の肖像画だけでなく、1525年の結婚以降、妻(カタリナ・von・ボラ)と対になった肖像画も多数ある。
版画もこれまた多々。
これらは、ルターの思想展開の戦略の中で大きな意味をなした。
写真のない時代、ルターの相貌は、絵で人々に知らせるしかなかったし、その表情ひとつで、人々の印象も信頼性も大きく変化してしまう。
妻との対の絵は、聖職者でも結婚は可能だとする彼の主張を、たちどころに市民に理解させた。
版画は、同じものを多数刷るのに実に都合のいいアイテムだった。
15世紀中頃に発明されたグーテンベルクの活版印刷は、これまた、大衆プロパガンダには最適のものだった。
上で書いたクラーナハの事業内容を思い起こして欲しい。
彼は、肖像画を描き、版画手法によって、更には印刷術によって、ルターの思想を視覚化し、出版業でそれを販売しもした。
ルターの総合的なプロモーションを一手に行っていたと言っても過言でないのではないか。
(彼の描いた裸体画の教訓は、ルターの思想とは殆ど無関係と言ってもいいだろう。)

ルターが贖宥状を批判して「95ヶ条の論題」をマインツ大司教に送り付けたのは、1517年だった。
これは当初ラテン語で書かれたが、すぐにドイツ語訳され、印刷され、世人の知るところとなり、宗教改革は本格化した。
1517年から、来年は500年になる。
500年の間に宗教の世界は大きく変化した。
普段意識しないが、その一端で、クラナハのした事は実に大きな意味を持った筈だ。
また、今も、クラナハの絵は我々を魅惑し続けている。ピカソ他多くの画家が、彼の作品に触発されて、新たな創作活動を行った。
本展の副題の意味するところである。


展覧会の構成は以下の通り。

1. 蛇の紋章とともに〜宮廷画家としてクラーナハ
2. 時代の相貌〜肖像画家としてのクラーナハ
3. グラフィズムの実験〜版画家としてのクラーナハ
4. 時を超えるアンヴィヴァレンス〜裸体表現の諸相
5. 誘惑する絵〜「女の力」というテーマ系
6. 宗教改革の「顔」たち〜ルターを超えて

全約90点、内、デューラー8点、現代作家15点。
ウィーン美術史美術館他、世界の多くの美術館から作品は集められている。
これだけの規模のクラーナハ展は、そうそう実現しないだろう。


(続く)
 
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