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2016年07月26日10:22

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障害のある人たち 「神の子」として

 予備校に通っていたときに、ある講師(現代文の先生だったのかな)が授業中にこんなことを言っていた。「中世ヨーロッパの教会では、障害のある子どもたちを『神の子』として大切にした」。

 もちろんそれは、中世ヨーロッパの社会が障害のある人に対して寛容であったことを意味するわけではない。貧困や災害の多い時代、彼らが生きていくことは大変だったに違いない。加えて、教会のすべてがそのようだったわけでもないだろう。
 けれども、教会の一部で障害のある人たちを保護していったことが、いまの福祉につながる一歩を作ったことも疑いない。

 前近代の日本でも、障害のある人たちの活動が歴史のなかにしばしば現れる。『平家物語』を語って聴かせる琵琶法師、按摩(マッサージ)や鍼灸(針やお灸)を生業として、彼らは生計を立てていた。朝廷や幕府も、彼らを組合として保護する政策をとっている。


 近代になると、福祉に対する考え方が広まり、教会や寺社だけでなく、政府もこれに取り組むようになる。しかしその一方で、弱者に対する社会からの差別や偏見の眼差しはより強くなっていった。
 ハンセン病に対する措置もそのひとつで、彼らを施設に収容することは同時に社会から隔離することにつながった。「健常者でないこと」が日常からの排除へと向かってしまったのである。

 そこに「神の子」として扱う気持ちはない。

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 知的、あるいは精神に障害を抱える人たちをサポートすることは容易ではない。それぞれ障害の程度も異なるし、我々が思いもよらない行動をとる場合もある。「神の子」だなんてとんでもない、と思ってしまうことだってあるだろう。暴れる人だっているし、社会的な行動をとれない人も多い。

 ただ、それでも「神の子」と表現した中世の人たちの気持ちを、逆に考えてみたいと思う。日常生活を送ることが難しい人たち。仕事に就くこともできず、就けたとしても長続きしない。財産もだまし取られ、場合によっては反社会的なことにも手を染めてしまうこともある。家族からも見放され、孤立してしまう人たちにどう手を差し伸べるのか。

 世の中がどのように進歩しようと、一定の割合で障害のある人たちは存在する。「神の子」なればこそ、世の中の理不尽や残酷さから彼らを守ってあげなければいけない。そして自立できる余地があれば支援してあげなければいけない。中世の教会もまた、そのような思いで彼らと接し、救おうと考えたのではないか。

 介護や福祉を単なる「仕事」と捉える限り、これほどの悲劇が起きるわけではないにしても、障害のある人たちへの差別や偏見が、現場関係者のなかに広がりかねない。そこには一般的な職業倫理とはほかに、「神の子」として接する気持ちも必要になるのではないか。

 福祉施設で働く人たちの給与や待遇、あるいは警備体制の見直しも必要なのはいうまでもないことだけれど、他方で介護や福祉とは何か、改めて考える時期に来ているようにも思われる。

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施設に刃物男、19人心肺停止
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=4111240
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