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2016年07月12日10:22

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日本の歴史上の名前あれこれ

 日本に限らず、歴史上の人物は何度も名前を替えたり、死後に名前を贈られたり(諡、おくりな)して、一定しない。日本の貴族や武家では、幼名から元服したときに、諱(いみな)を授けられる。それは、先祖代々続く通名(とおりな)と主君などから頂戴する一字が組み合わされて付けられる。

 たとえば、室町時代の三代将軍・足利義満は、武家の棟梁であると同時に、朝廷のトップにも登りつめた人物として知られる。そんな義満の治世において、「満」の名をもつ貴族や大名はやたらと多い。そして四代将軍・足利義持の時代になると、今度は「持」の名があふれかえる。
 将軍家自身も、やたらと改名する。十代将軍・足利義稙(よしたね)は、義材(よしき)→義尹(よしただ)→義稙。将軍職を追われ、さらに復帰を果たすたびに名を変えた。

 けれども当時、その名で呼ばれることはまずなかった。親子や兄弟、親しい間柄では通称、たとえば太郎や次郎という名で呼んだ。また格式ばったところでは官位で呼ばれる。大河ドラマでいえば、真田昌幸を安房守、石田三成を治部少輔(じぶのしょう)や治部殿と呼んでいるのがそれだ。付け加えると、真田信幸の源三郎、信繁(幸村)の源次郎は通称である。

 さらにややこしいのが、そういう名前は文献として伝わっているけれども、どう呼ばれているのかはいまいち判然としない。鎌倉時代末期から南北朝時代に活躍した護良親王は、いまでは「もりよし」とされているが、「もりなが」とも呼ばれていた。昔はルビなんてふってくれていないから、同時代人が書いた日記から、当て字をみつけて類推するしかない。護良親王の場合、室町後期に「モリナカ」と読ませる文献はあるものの、同時代では「良」を「よし」と読ませていたと推測されるとして、「もりよし」が一般的な呼称となっている。

 女性になるともっと分からない。もちろん、出家したあとの院号は分かっているけれど、それまではどう呼ばれていたのか分かっていないことも多い。豊臣秀吉の正室がドラマによって「おね」「ねね」「ねい」など違っているのは、「某ね、ね某」らしいことは分かっている(自筆書状の署名に「ね」と書いてあることから)けれど、名前そのものが不明なためだ。

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