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2016年07月06日10:35

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介護と「お金」

 介護の問題が行き着くところは、「お金」である。仮に本人がいまよりもいい環境で暮らすことができ、家族にも負担のかからない施設が月々の年金給付で賄われるとしたら、こうした苦悩は大きく軽減されるだろう。しかし、施設に入った際の衣食住、加えて日常生活を送るためには介護士、健康管理には医師や看護士が必要になってくる。これではとても年金だけでは足りない。

 では、こうした人たちのために行政がどうサポートすべきか。実際のところ、介護も含む社会保障費はすでに年間33兆円に達していて、これは国家予算(一般会計)の三分の一を占めるまでになっている。団塊の世代がシニアに達するなかで、社会保障費は放っておいても増えていかざるを得ないが、これ以上、介護サービスの拡充を予算に組み込むことは難しい。文教・科学振興、防衛、公共事業がそれぞれ5〜6兆円前後の予算であり、国会議員や国家公務員の人件費はさらに低い。ほかから予算を持ってくることはとてもできない。

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 いま、私たちが暮らす社会は、表面的には昨日と同じ、一年前、五年前、十年前とも連続性を伴った日々であるような認識をもっている。けれども人口分布や社会保障制度のかたちに目を向けると、根本的なところで大きな変化があることが分かってくる。
 連続性があるように感じているのは、無理をしてそのように見せているというところもある。消費税を上げるのはけしからん、行政がもっと身を切るべきだという批判も、なるほど十年以上前から続いている。

 しかし、各年度の予算から社会保障費を見てみるとどうだろう。五年前の2011年度は約29兆円、十年前の2006年度は約22兆円。だいたい年間1兆円のペースで増えていることがわかるし、その規模は五年前の差額分と比較すれば、文教・科学振興予算がもう一セット、十年前であれば二セットくらい賄えるほどなのである。「去年までと同じ」みたいな感覚でいたら、財政は悪化するばかりだし、実はその感覚すら無理くりやって維持しているに過ぎないことに気づかない。

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 こうした「不都合な真実」に目を背けているからこそ、介護の現場がいかに厳しいのかを伝えるドキュメンタリーで私たちはショックを受けてしまうのかもしれない。「行政は何とかしろ」となると、さらなる予算や人員を投入しなければならない。しかしそれが極めて難しいのは上述した通りだ。

 それなら安楽死を認めればどうか。これも家族にしてみれば大きな葛藤だし、殺人との線引きも簡単ではない。


 もちろん、こうした現実を「お金」だけでみていいのかという疑問も理解できる。私も親が自宅療養することになり、付きっきりになった。昼と夜の区別が曖昧になり、深夜に起きだしてくることもあったし、高熱を出しているのに気づかなければ大変なことになっていただろう。文字通り24時間、親のそばに張りついていた。このとき、親には治って欲しいという思いがあるとともに、いつまでこれが続くのかという先の見えない不安があったことも事実だ。

 介護を受ける当事者、そしてそれを支える家族。なるほど「お金」だけでは解決しない複雑な事情がある。しかしそこに、しっかりしたケアやサポートをしてくれる施設や人がいて、その費用についてもちゃんとした見通しが立つのだとしたら、その負担は少なからず軽減もされるだろう。「お金」だけでは十分とはいえないけれど、必要なのは間違いない。

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Nスペ「介護殺人」特集 “重すぎる内容”に絶望
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=29&from=diary&id=4077454
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