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2015年08月31日03:05

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「いま」と「かつて」の若者たちのデモ

 「安保法制反対」と叫ぶ若者の姿は、ともに行動する中高年の人たちにとって「かつての自分」と映っているのかもしれない。1960年、1970年前後に学生で、デモに参加した人もそれぞれ70歳、60歳を過ぎようとしている。

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 現在、参院で審議されている安保法制が、いわゆる「戦争法案」的な性格が濃厚であるとは必ずしも思わない。しかし、自衛権の解釈が安全保障政策の改編とともに、ときの政権によって恣意的に変更されることに対する危険性について理解できないわけではない。その論理が正しいものかどうかは別にしても、安保法制の成立によって、自衛権の拡大解釈が将来的にエスカレートする可能性を開くかもしれない。そんな懸念が彼らをデモに向かわせる原動力のひとつになっているのも確かだろう。

 ところで、デモというのは気持ちを同じくする人たちが集まり、独特の一体感を得ることができる。ともにシュプレヒコールを挙げて行進し、同志の演説に共感する。ときに自らも演壇に上がって発言し、拍手と歓声を贈られる。そこで得られる高揚感は、「これで世の中を変えられるのではないか」という思いを強くするに違いない。
 もちろん、それを夜郎自大と言うつもりはない。政治問題に限らず、どのような行動にも自らを鼓舞する動機や思いは重要で、それがあってはじめて周囲への理解や納得、共感を得ることができるからだ。

 しかし、そうした高揚感に酔い、周囲との温度差から孤立していくのも、政治運動が陥りやすい問題である。それを冷笑する人たちに食ってかかり、彼らを敵に回すような真似をすれば、運動はそれ以上の発展が望めない。彼らも世論を構成する一部なのだから、仲間に引き入れなければ、社会を動かすことは難しい。しかし、地道に周りを説得するのは時間もかかるし、骨が折れる。
 そんな周囲の冷たい視線に傷ついた彼らを温かく迎えてくれるのも、同志たちの集うデモなのだ。参加した人たちが、しばしば寝食を忘れるくらい運動にのめり込んでしまうのは、そこで得られた一体感、その興奮を忘れられないからという面も確かにある。

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 70歳、60歳の人たちが、昔取った杵柄とこれに参加する気持ちのなかには、60年安保、70年安保で果たされなかった当時の「若者」が棲んでいる。しかも「敵」は、かつて対峙した岸信介の孫、安倍晋三なのだ。好悪が極端に分かれる政治家のひとりではあるけれど、反対派からここまで嫌悪されるのは、安倍さんの個性に加えて、そうした背景も含まれているのだろう。

 けれども、60年安保、70年安保は必ずしも彼らの思い描いた展開にならなかった。そこには、上でも触れたように、その一体感が拡散に向かわずに内輪に収束してしまったからだろう。
 60年安保は、岸を退陣に追い込むことはできたけれども、新安保条約締結阻止という目的を果たすことはできなかった。盛り上がった世論も、岸退陣と池田勇人内閣の成立とともに霧散してしまう。
 70年安保のときは、ベトナム反戦などと結びついて学生運動として展開していったものの、暴力と内紛によって、社会からの支持を次第に失っていく。そして安保延長阻止も果たせなかった。

 市民運動の難しさ、その教訓を肌身で知っている当時の「若者」たちは、いまの安保法制に反対を叫ぶと同時に、現在の若者たちに、その苦い経験を伝えていく必要はある。過去の安保闘争という経験も踏まえて、市民運動や「公共」のあり方について研究も深まった。これを生かした言動が望まれる。

 ただ、デモというのはある意味で、感情の発露であり、それゆえに共感、快感が得られる。この陶酔のなかで、運動のかじ取りを行うのは至難の業ということも否定できない。このあたりが戦後リベラリズムのもどかしさでもある。

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■安保法案反対、全国で一斉抗議 国会取り囲み廃案訴え
(朝日新聞デジタル - 08月30日 20:10)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=3591332
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