mixiユーザー(id:3341406)

2012年12月27日18:22

507 view

講義「ドストエフスキーと現代」/亀山郁夫

放送大学の特別講義、夏の盛り7/22に放送されたのだが、録画しておいたものをやっと見る事ができた。(7/22も再放送で、実際の収録は2006年の4月だったらしい。)
タイトルは「ドストエフスキーと現代」。

亀山郁夫(1949- )は東京外国語大学の学長で、ロシア文学の研究者。
2006〜07年に光文社古典新訳文庫から出版された、亀山の新訳『カラマーゾフの兄弟』(1880)は、100万部を超えるベストセラーとなった。

講義は、大教室で大人数を前にしてやる形式でなく、いわば密室で1人の聴講者に対して語りかけるが如きスタイルを採った。TVというメディアにして可能な講義であるとも言える。
亀山個人の若い時代のドストエフスキー体験を織り交ぜ、ロシア近代史、特に皇帝と芸術家、ソビエト連邦以降はスターリンと芸術家という二重構造の問題を、1人の聴講者(それは私かもしれない)に相対し、丁寧に語ってくれた。

亀山の新訳がきっかけになったのかもしれないが、ドストエフスキーのブームというのは、戦後の日本でも、幾度目かである。
「時代を超え、場所を超えて成長する作家」とドストエフスキーを称したのは、埴谷雄高(1909-97)だ。
時代時代の問題の本質に密接に結び付く要素を、常に持ち続けるのがドストエフスキーらしい。
この日記で、フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(1821-81)という人物やその作品の、またこの講義の要約をするのは困難の極みである。
ここでは、亀山がこの講義をどう始めたか、その冒頭部分をそのまま掲げる事で、レポートに代えたいと思う。

「21世紀のグローバル化の時代が「ドストエフスキーの時代(世紀)」と言われて久しい。
私がそう直感を得たのは、2001年9月の事だった。
私はツインタワーの崩落の場面をロンドンのホテルの中で見た。
その現場をTVのモニター画面通して見るという行為そのものの中に、ドストエフスキーのテーマが宿ったというように感じたのだ。
世界中がパニック状態に陥っていたが、私はロンドンのハイドパークにいて、その夕焼けを見ながら、ことによると世界が終わるのかもしれないという事を感じた。そして、神というものは存在しないのではないか、そういう根本的な疑念を抱いた。
その神の不在という感覚が私の中に押し寄せてきた時、これはドストエフスキーが予言していた状況なのかもしれないと直感した。」

亀山がこの後で言うように、『罪と罰』(1866)のラスコーリニコフの殺人は、まさにテロリズムの日常化の予言かもしれない。
9.11だけでなく、世界中で多発する無差別殺人は、ある種の選民思想と密接な関係があるだろう。
ハイテクノロジーの進展は、人間の生命力の劣化を生んでいる。
人々は社会や自然から疎外され、そうした心的環境の中で、「私は天才か凡人か」という普遍的な問題に直面する。
凡人でない事を証明する為に、弱々しい現代人達は、他人を殺傷するという選択をするかもしれない。

怖ろしい事だが、21世紀がドストエフスキーの時代と呼ばれる訳の一端はこうしたところにもあるだろう。

勿論、講義の内容はもっと幅広いもので、ドストエフスキーの実人生、「二枚舌」「黙過」「共苦」等の普遍的テーマ等、興味深い点は多かったが、今日は風呂敷を拡げず、ここ迄にしておく。
 
4 3

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2012年12月>
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031