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2012年07月29日21:13

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映画『別離』/A・ファルハディ

7/25(水)、シネマe-ra浜松で『別離』を観る。

ラストのシーン、裁判所の審議を終え、夫婦は廊下のベンチに腰をかける。
2人の間に仕切りはあるものの、行き来はできる。
何れかが謝るならば、許しを請うならば、2人は離婚の危機を乗り切る事もできるだろう。
観客はそれを待っている。

1人娘は裁判長に呼ばれ、どちらと同居するのか、決心を迫られる。
娘は泣きながら、しかし、決心はしている、とだけ答える。
その答えは、映画は写さない。
その答えが、両親どちらかの心を氷解させるかもしれない。
だが、映画は、そのまま終わってしまう。

観客のカタルシスは実現されない。

しかし、観客のカタルシスの為に映画はあるだろうか?
今もその為の映画はたくさんある。
ギリシア悲劇だって、アリストテレスはカタルシスを目的としていると考えた。
観客はそれを得て、高揚し、一時気持ちが楽になり、現実の生活に帰っていく。

「だが」と「しかし」を何度も繰り返す事になるが、ファハルディにとって、観客のカタルシスが一体何の役に立つだろう。
彼は、イランに住みその中で映画を作っている。これからも、海外に出て外からイランを批判するという手は採らないだろう。

ここで、両親のどちらかが頭を下げ、2人が抱き合うならば、観客のカタルシスは実現するが、その時、問題はいっぺんに卑小化され、2人の個人的な問題になってしまう。
映画でファハルディが語りたいのは、イランの問題であり、イスラムの問題である。
1400年の歴史の中で培われてきた問題である。

勤め先の痴呆老人の失禁に、臨時家政婦の女性がどう対応できるか。
失業中の夫に、何故内緒で妻は働かなければならないか。
・・・これらは、映画の事件を大きくするベースとなる出来事だが、欧米型社会では理解できないだろう。
しかし、イランでは重大な問題なのだ。
場面々々で、何人かの小さなウソが、幾度も重ねられ、そして遂には、破局を迎えるしかない迄の事態に陥る。
何故正直に打ち明けられないのか、詫びる事ができないのか、極東アジアの日本人にも判らない。
しかし、それが現在のイランの社会であり、イスラム体制である。
夫婦の個人的人格の問題でも資質の問題でもない。

ファルハディの映画は、昨2011年2月に『彼女が消えた浜辺』を観ている。
<参>http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1670064074&owner_id=3341406

それについて書いた日記で、私は下のように書いた。
・・・・・・
セピデーの僅かな嘘が、本当に悪い事だろうか。
だが、これは非イスラム人の考え方である。
積み上げたバベルの塔のように、1つの小さな石(嘘)を引き抜く(認める)事で、より大きなものが、音を立てて崩れ去ってしまうのではなかろうか。
そんな恐怖の為に、皆で社会制約を圧し合っているのが、浜辺の家の彼等であり、イラン人の多くではなかろうか。
・・・・・・

『別離』では、ファハルディの頭の中はずっと整理され、数段研ぎ澄まされた脚本になった。

この映画が、欧米でも受け入れられ、ベルリン国際映画賞で金熊賞を、米アカデミーの外国映画賞を獲った事は驚愕に値する。
それとも、欧米では対イランへの政治的思惑で賞を与えたのだろうか。それは穿ちに過ぎるだろう、多くの映画祭で観客賞も獲っているのだから。


監督・脚本 アスガー・ファルハディ
撮影監督 マームード・カラリ
編集 ハイェデェ・サフィアリ
美術・衣装 ケイヴァン・モガダム

出演 レイラ・ハタミ,ペイマン・モアディ,サレー・バヤト,シャハブ・ホセイニ,サリナ・ファルハディ 他

受賞 文中他、多数

2011年、イラン
 
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