事前にお知らせ(
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1786784233&owner_id=3341406)もした通り、高峰秀子の書いた『わたしの渡世日記』上下巻を読んだ。
女優の片手間仕事ではない。素晴らしい表現力と文体に舌を巻く。
1ページ1ページに愛おしさが溢れ、ページを繰るのが惜しいような気持ちにさせられる。人と人の関係の機微には気持ちがしっとりとする。
しかし、文章はベタベタしておらず、乾いている。それは、彼女の自身の幸不幸に溺れない姿勢によるものだと思う。自分をしっかり客体化し、俎板の上に載せている。
口が悪いのは、頭の回転の良さによるのだろうが、それは他人だけでなく自身にも向けられている。しかし、彼女は小学校も碌に行っていない。
この本では、彼女の生まれ(1924/大正13)から、書いている当時の現在進行形(1975/昭和50)の年齢、50歳を越えるところ迄が対象になっている。
ご存知の通り、高峰は昨2010年(平成22)12月、86歳で亡くなった。
50歳を越える本人は、生の書き手として登場はするが、描かれる中心は彼女が松山善三と結婚する1955年(昭和30)辺り迄だ。つまり、昭和の前半が、この書の背景の時代である。
そういう意味では、この本は、昭和の前半史、特に映画界のそれとなっており、また、戦争を挟む時間を少女から成熟した女性へと生き抜いた女優、その生活,風俗の歴史の見事な活写ともなっている。
高峰は5歳の時ある偶然から映画デビューするのだが、彼女の成長の足取りと軌を一にして、日本映画は最盛の時代を迎える。
映画と関係した人物達、つまり監督、役者、スタッフ、製作会社の人達が本名で出てくる。
彼女が出演した映画と、彼等の行動や発言等が、この書の表立ったメロディだとすれば、彼女と養母の愛憎は通奏低音のように、全編を通したうねりとなっている。
高峰は、函館に生まれてしばらくし、父の妹の養女に出され、数奇な転変を経て東京に出てくる。
養母の秀子への偏頗で独占的な愛情は、次第に過剰で過激な度を加え、秀子を苦しめる事となる。
しかし、その苦しみの渕でも、彼女は自分の負の感情に溺れる事はない。人にはそれぞれの訳がある、と思う。こうした傾向は、彼女の一生続く人生肯定の姿勢の土台になっていく。
高峰秀子を育てた監督は、山本嘉次郎、成瀬巳喜男、小津安二郎、木下恵介、豊田四郎、等々、日本映画史有数の人物達だ。描かれた彼等の素顔は、一級の映画研究資料ともなるものだろう。また、駆け出しの黒澤明は山本嘉次郎の助監督をしていたが、17歳の秀子と黒澤の淡い恋と破綻のエピソードには胸が熱くなる。この破綻をもたらした犯人は、前述の養母であった。
役者達では、花柳章太郎、大河内伝次郎、森雅之、田中絹代、岡田嘉子、原節子、入江たか子、杉村春子等に愛され、彼彼女達から多くのエキスを吸う。
認められていく高峰は、映画界以外でも交友を得るようになる。
最も深甚なものを得たのは、画家、梅原龍三郎と小説家、谷崎潤一郎の2人からだろう。
梅原龍三郎は肖像画を描く事が少なかったが、高峰のそれは素晴らしいものだ。その中の2枚が、この本の上下巻それぞれの表紙になっている。(写真1は下巻。上巻は前掲のurlからご覧頂きたい。)
谷崎では『細雪』の”こいさん”(末娘)妙子を、高峰は演じている。監督は阿部豊。
谷崎は、芦屋言葉で悩んでいた彼女に、妙子のモデルである松子夫人の実妹を付け、地唄舞の指導には武原はんを紹介する。
こうした本物中の本物達との交流で、秀子は役者として以上に人間として成長を遂げていく事になる。
梅原龍三郎や谷崎潤一郎等、高峰の文章は全く巧む事なく、彼等の本質の一端を照らし出している。
彼女は綽名付けの名手でもある、龍三郎は火を吐く「梅ゴジラ」、潤一郎は「桜鯛」、だとか。
これは一種の能力と言うべきだろう。一節を引用したい。
「潤一郎は生前、鯛のさしみと、うしおをこよなく愛して賞味したけれど、そんなこととは関係なく谷崎潤一郎はどうしても鯛に似ているのだ。鯛といっても目の下一尺以上の桜鯛である。ガッと見開いた大目玉、八の字の結んだ分厚い唇、鋭い歯・・・・・・。その人相はどちらかといえば傲慢な面構えとでもいうのだろうか？ そしてその身体を包むはんなりとした桜色のウロコこそ、谷崎文学を象徴するものだと私は思う。」
写真2は、谷崎を熱海に尋ねる高峰秀子。
潤一郎死後の松子夫人についての一文等も、涙なしに読めないものだ。
こうした品の高さを何処から秀子は得たのだろうか。
『わたしの渡世日記』は、1977年の日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。
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