■身心快楽(57)
●６月２１日(日) 続 曇り 夕方に、南の空が晴れる
きのう、小雨が降り、今朝雨があがっていた。
梅雨なのに、曇りのときも、どんよりしない。
昼間、うぐいすが鳴いた。
紫陽花がしっとりと咲いている。
南の空が夕方になって、水色になり白い雲が浮かんでいる。
ちょっとだけ降った雨だったが、しっとりとした
夕方になった。
●「富士日記」昭和四十六年 拾遺��
▼七月七日(水) 雨、風つよし
東京を六時に出る。昨夜は書庫の整理を花子とした。手間どって午前二時半まで
かかった。
眠い。あまりに眠いので、石川に車をとめて、二十分ほど仮眠。
眼をさましたら売店が開いていて、主人はおそばを四、五人の客と食べていた。
雨は上がりそうになると、又急に風が吹き、雨が降りだす。荒れ模様。
管理所へ、夏の間の新聞を申し込む。
▼七月八日(木) 晴
予報では、今日台風がくるといっていたが、晴れてしまう。風がわたって、
快晴。
午前中に気温はどんどん上がって、草や樹がむんむん匂ってくる。
東京は三十二度になったとか。
午前中、吉田へ買出し。・・・
留守中に大岡夫人が「今夜来るように」と誘いにきて下さったとのこと。
五時半に二人出かける。
「何故、およびしたかというと、ワグナーのレコードと新しいステレオと新しい
カラーテレビを大岡は見せたくて仕方ないんです」と大岡夫人は、おかしそうに
言われる。
大岡さんは、毛むくじゃらのじゅうたんに寝ころんでいる。
寝ころんだまま、ステレオのスイッチをひねれるように、新しいステレオが置かれて
いる。スイッチを入れると、部屋の隅の四角い二つの箱の方からいい音が出てくる
仕掛けになっている。寝ころんだ位置できくと一番いい音なのだそうである。
ワグナーのレコードは、カステラの箱を二つ重ねたほどの厚さの箱だ。
中にはワグナーのレコードのほかに三冊、本が入っている。この本を読んでから、
この中に一緒に入っている解説のレコードをきいて、それからワグナーのレコードを
きけば、ワグナー研究学者第一人者になれてしまうほどの精しさのものだそうである。
ラインゴールドのはじめの方と、ワルキューレのまん中へんと、解説(日本語)の
レコードのはじめの方をかけて下さった。
主人は「ワグナーをきいていたら霊感が湧いて、小説の題を二つも考えてしまった」と
言った。大岡さんは「貸してやるから持っていっていいよ」とおっしゃった。
大岡さんは「タダでこのレコードは貰ったけれど、本当は十四万円ぐらいするぞ」と
おっしゃった。
お刺身を御馳走になった。楽しかった。
足もとが暗いので、大切なワグナーは明朝運ぶことにして車の中に置いて
庭を下る。
今夜は二人とも早く眠る。
▼七月九日(金) くもりのち晴
車の中に陽があたってワグナーが反ってしまったら大へん。
朝早く、ワグナーを家に運ぶ。
主人、早速かける。蓄音機がわるいせいか、まるで音がちがう。
うちの蓄音機だと下品な音がする。女の人が歌うところを台所できいていると、
民謡のおばさんの声のようなけたたましい声にきこえる。
昨日はこんな声でなかったのに。
タマはワグナーがかかったら外へとび出ていった。怒られているように
思ったらしい。
吉田へ買出し。
毎日新聞高瀬善夫さんあてに、原稿が出来なかったおわびの電報を打つ。
電報百十円。
大岡夫妻、夕方、遊びにみえる。デデも来る。
▼七月十日(土) 快晴
午前中、朝霧高原へ主人を乗せて行く。帰り、河口湖一周。
サニデーで昼食。カレーライス(主人)、ミックスサンド(私)、六百六十円。
陽ざかりに庭の草刈りをしていると、猫ほどの大きさの茶色のような灰色のような
動物が、刈っている茂みからとび出て、私の鎌を持つ右腕をのりこえて
逃げていく。草むらの深いところで眠っていたらしい。乗りこえてゆくとき、
ずっしりと重かった。兎らしい。
夜 ごはん、とろろ汁、塩鮭、大根葉漬物。
・・・・
▼七月十三日(火) くもり時々晴
六時、東京を出る。
着いてから一休みして、吉田へ買出し。
・・・・
タマ、もぐらの子供をとっきて遊ぶ。もぐらの子供は真黒い短毛で掩われ、
つやのあるビロードのような体をしている。足の先は象牙細工で出来て
いるようだ。
しばらくすると死んでしまう。タマは死んだもぐらを放りあげては遊んでいた。
動かなくなると、短い声でよびかけては不思議そうにしていた。
やがて置き去りにしてどこかに出かけた。
きょうはお盆の入りだ。
▼七月十四日(水) 快晴
・・・・
陽ざかりに草刈りをする。夕方も草刈りをする。顔が火傷をしたように
熱い。あまりながくしていたら、気持がわるくなる。やめたら癒った。
夜はうす紫の空。夜霧が深い。
▼七月十五日(木) 快晴、夕方雨
・・・・
気が遠くなるようなよい天気。草刈りをする。そのあと、水を浴びて、
テラスで風に吹かれていたら、いつのまにかねてしまった。
午後、私が食堂の椅子に腰かけているとき、テラスから主人がふっと入ってきて、
硝子戸を音をたてないように閉めはじめる。一人で黙ってそそくさと閉めている。
全部閉め終わると「タマは外に出ているか。タマを出さないようにしろ。
百合子、じっとして音をたてないようにしていれば大丈夫だからな。
いま熊が、そのつつじの向うを歩いている。もうじきほかへ歩いていくからな。
じっとして外へ出ないでいろよ」と、低い声で抑揚をつけずにゆっくりと言った。
タマは二階に昼寝している。二人は食堂の椅子に並んで腰かけていることにした。
熊は大きな犬の三倍位の大きさだったという。しばらくして「もう大丈夫だろう」と
主人は言った。私はいそいで大岡さんへ行く。
「熊がいたから、デデを外に出さない方がいい」と言いに行く。
主人が報らせておけというので管理所にも行く。
「あの、私が見たのでなく、主人だけが見たのだから、主人は眼がわるいので、
もしかしたら間違っているかもしれないのですが・・・」と、小さな声でいうと
「何かね。ごみの棄て方かね」と不審そうな顔を向ける。
「熊が出ました」と言うと、大騒ぎになってしまった。
ガードマン一人と管理所の三人位がジープで来て、熊の歩いていった方向へ
向かって林の中を、洗面器やバケツを叩いて見回ってくれる。
いなかった。
夕方、下って、Ｓ農園で山芋四本(三百円)を買う。大根一本をサービスに
くれた。
暗くなって霧がわく。夜は涼しい。
▼七月十六日(金) 快晴
・・・・
昨日より暑い。草刈り。午後は、草を刈っては水を浴び、一休みして
風に吹かれては又草刈りをする。夕方まで何度もくりかえす。
タマは、主人がおろした松の枝の、松葉の中にもぐりこんでいる。
昨日今日おろしたばかりでまだ青々としている松葉は、冷いやりとして
気持がいいのだろう。ちくちくするから顔だけ出している。
・・・・
今日のテレビは、ニクソン訪中のニュースばかりやっていた。
明朝早くに帰京する。
明日(十七日)中公の会。十九日に梅崎[春生]さんの七回忌がある。
夜、星が一杯でた。明日も暑いらしい。
●季節は春から夏に移ってくる。
どんなに暑い夏の日にも、いつかは秋が訪れる。
どんなにきびしい日射しでも、やがては日暮れて、夜がくる。
百合子さんは健気なようだ。
つとめて滑稽に書こうとしている、
とも受け取れる。
しかし、そんなことはどうでもいいことで、
陽ざかりに草を刈り、夕方にも草刈りして、
あまりながくして気持が悪くなったら、そこでやめる。
風に吹かれて、一休みして、また草を刈る。
次に来るのは恒例の、やや長逗留の「夏休み」である。
花子さんもやってくるだろう。タマも大きくなっていく。
そして百合子さんは、泰淳をそっと見てみる。
ログインしてコメントを確認・投稿する