■身心快楽(53)
●６月１９日 晴れか、薄曇り、日中暑し
朝、家を出るときは傘をもって行こうかとも思った。
家のあたりでは、薄曇りで天気は下り坂の感じ。
しかし、天気予報では３０度を超す暑さだという。
梅雨前線は、日本列島の南に停滞したままで
雨が降らない。
昼間、カッと薄い雲間から夏の陽射し。
夕方七時になっても空が明るい。
風は日が落ちると、どことなく湿っぽくひんやりする。
梅雨の中の夏至。
●変わったことが何もないこと、いつもの日が続くこと、
退屈に思える日常があること、変化のないこと、
それが何にもまして充実した日々につながっていること。
「富士日記」の昭和四十六年の春から夏にかけての「山行き」を読むと
そんなことを感じる。
願わなくても日は過ぎ去り、時は変わる。泰淳は『身心快楽 自伝』の扉に
「すべてのものは変化する 変化するものは互いに関係しあって変化する
よろこびも悲しみも変化の中にある」と書いている。
百合子さんのこのころの「日記」を読むと、やがて来る失われるものと、
いまあることへのいとおしさ、そのような漠たる思いが充満しているように
思われる。
●「富士日記」昭和四十六年 拾遺��
▼五月十一日(火) 晴
朝七時半、東京を出る。
談合坂で、シューマイ弁当と幕の内弁当を買って、車の中で食べた。
タマにかまぼこをちぎってやる。タマ、今日はおとなしい。
・・・・
庭にはすみれとボケが満開。枯草の中で咲いている。りんどうも咲いている。
背の低い草の花は、ほかの草の丈が伸びないうちに、急いで咲くらしい。
昼 鮭とのり茶漬、きゅうりとしらす三杯酢。
夏のような陽射し。夕方までふとん干す。テラスで、麦わら帽子を顔にのせて
昼寝。
▼五月十二日(水) 晴
うぐいすが、よーく丁寧に啼いている。
昼寝は夏のように暑い。風がなく、うぐいすや鳥の啼く声と、遠くで家を建てている
音がしている。タマは陽かげの庭の道のまんなかでねてしまっている。 ・・・・
日中暑かったのに夕方からは急に冷えてくる。火を焚く。
▼五月十三日(木) 晴
朝ごはんのあと、すぐ山中湖へ下る。主人同乗。から松林は、どこも透きとおる
ような新緑だ。去年まで、いまごろ走って通るときの楽しみのメドにしていた、
吉田の外れの芥子の花畑は、今年はない。土を掘り返している。ドライブインを
建てるらしい。 ・・・・ 山中湖を一周する間、主人、酔ったように
緑を見ている。
▼五月十四日(金) うすぐもり
庭にわらびが八本ほど出ている。うちのわらびはこのままにしておく。
籠を持って、わらび採りに出かける。十本採っただけ。村有林や借地林に入っても
ない。すみれやボケが咲いているだけ。兎の糞が所々にまとまって乾いている。
うぐいすの巣をみつけた。卵はなかった。
灰であくぬきをして、十本のわらびを茹でる。主人はおいしいと言った。
林の中に一人で入っていると、うぐいすがすぐそばで、突然、大きな声で啼きだす。
ギクリとする。
▼六月二日(水) 晴
しばらく来なかった。から松林は緑色に、草は生え揃い、山は夏の景色に変わって
いる。
うぐいすは大きな声を張って、上手に啼いている。
家は緑の水の中に沈んでいるように見える。梅は実をつけた。今年になって
はじめて。植えたとき土地の人は、この寒さの山では実はならないだろうと
いっていたが、一本に二つか三つついている。やっぱり深沢さんに梅の実がなったと
知らせなくっちゃ。
・・・・
夜、床に入ってから、車の電気がつけ放しになっているような気がして
気になるので見に行く。隣りも灯りを消してねてしまっている。
月は出ているが、カサをかぶっている。星もにじんで見える。
紫紅色の空。庭は真暗だ。足許がまるでわからない。
タマが先にとんでゆくので、白いお腹や白い手足をたよりに庭を上る。
電気はついていなかった。タマの手足をめじるしに、又庭を下る。
▼六月三日(木) くもり、夜になり雨
昼すぎ、文春の内藤さんから電話。三時すぎ、管理所から電話で返事をする。
・・・・
買出しに下る。Ｓランドから少し下ったところで、トレーニングパンツの少女が
小ぬか雨の中を一人で走って上って来るのに会う。赤黒いほどの血色のいい顔で、
ゆっくり走ってくる。
・・・・
帰り、さっきの少女が走って下って来るのに会う。あとは車一台、人一人にも
会わない。雨に濡れて緑の洪水のような林や草原に、酔払っているような気分だ。
ひきずりこまれるように眠りこみそう。
夜になり、音を立てて雨。今年は梅雨入りが一週間早いのだ、とのこと。
甲府では赤痢がもう出ました。
▼六月四日(金) 風雨つよし
雨が降るたびに、草はのび、葉や枝はひろがり、緑は深まってきて、
時間が刻々過ぎ去ってゆく。毎年私は年をとって、死ぬときにびっくりするのだ、
きっと。
主人は終日、原稿を書いている。掃除も洗いものも裁縫もしないで、
音をたてないように、雨の降る間は部屋にじっとして本を読んでいると、
そのまま昏々と眠ってしまう。タマも一緒にねてしまう。タマはすすり上げる
イビキをかいて。
夕方、少し晴れてくる。富士山は濃紺の姿を現わした。
管理所へプロパンガスの代金を支払う。千八百円。
テレビの山梨ニュースは、ここかしこの食中毒のことばかり。
明朝早くに帰る。
●この「静謐さ」は、どこからやってくるのだろうか。
やがて来るときのことを知っているかのように。
そして、それと背中合わせに、今があることを、まるで
知っているかのように。
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