■身心快楽(44)
●６月１２日(金) 続 夜中、日付は１３日に変わる。
３連休の初日が終わった。
もうすこしして、夏が近くなると
ここらあたりでも夜中、バイクを走らせる若者がいて、
深夜、パトカーからバイクに向かって「そこの車、停まりなさい！」と
マイクで叫ぶ警官の声が聞こえるようになる。
でも、まだその季節はもう少し先だ。
外は真っ暗で静かだ。
今は、ひんやりとして外気が気持ちいい。
●妻は帰ってきて、「食べた？」と聞く。「うん！」と答える。
アジの南蛮漬けは、大きめのアジだったが深皿に漬かっている３匹とも
全部食べた。トマトとサラダはちょっと食べた。
鯛の荒炊きと酢ぬたは、まだ手をつけていなかった。
「ダメじゃない、食べないとヘロヘロになるよ」
私は、「いまから食べるところ・・」と言って、妻が早速、切ってきた茹でダコと
わけぎの酢ぬたを食べた。
「あのねー、きょう美容室行ったらね、あそこのマスターがね、
へぇーっ、ご主人そんなに食が細いんですか。だったら素麺なんかどうですかね、
って言うの。今晩、そうめんでいい？」
「ああ、そうめん大好き。そうめんがいいナー」と、
そんな会話をした。
●「富士日記」昭和四十五年
九月以降・拾遺��
昭和４５年の最後の「山行き」は、夏休みから数えて第７回目の「山行き」となる。
▼十二月二十一日(月) 晴
谷崎賞や三島由紀夫さんのことがあって、十一月と十二月はずっと東京に
暮した。
朝日の原稿を渡し、写真を撮ってから、十二時半ごろ急いで東京を出る。
はじめて玉(たま)[猫。朝六時ごろ、銀座に写真を撮りに出かけた花子が拾って
きた仔猫。十一月より飼う]をつれてきた。ネコは鳴きとおしに鳴く。
声が出なくなるまで鳴き続ける。
石川で天ぷらそば二つ百四十円。
ネコは中央高速道路に入ると静かになって眠った。曲がったり停まったり
発車したりが、気持がわるいらしい。
しばらく来なかったので、家の中は冷えきっている。暖炉を焚いても
なかなか温まらない。庭は霜柱が深くたったまま凍っている。
隣りに鯖の干物をあげる。隣りの庭の植木には全部ワラの帽子がかぶせてある。
大きな木には幹に縄をまいてある。東京の料亭かお邸の庭のようだ。
おばあさんは「植木屋の手間賃は一日三千円で、自動車代も山へ上がってくるの
だから特別出しますし、材料費もこっちもちで、莫大なものでございますよ」と
言った。
夜 桜めし、おでん、煮豆。
夜はとても寒い。風が出てくる。冷えてきて足の甲が重たい。
▼十二月二十二日(火) 風強し 晴
昨夜冷たくて何度も眼がさめる。ふとんも冷たい。部屋の空気も冷たい。
ネコは私の胸の上にのってくる。
朝、風がつよい。昨夜ねむれなかったので顔がはれぼったい。
鏡をみるとイヤになる。
朝 ごはん、鯖干物、大根おろし、しらすの煮たの、おでん。
玉は食堂の硝子戸に額をつけて外を見ているが、硝子戸をあけてやると、
怖がって身じろぎもしない。
玉を連れて買出しに下る。玉はボール箱に入ったきりで鳴いてる。
ストーブの芯を取り替える。七百五十円。
酒屋で。パン一斤、のしいか、チーズ、いも煎餅、みかん一キロ、合計七百円。
河口湖駅で新聞二十円。駅はがらんとして、スケート靴を肩から下げた学生が
十人位佇っている。
雑貨屋で。サランラップ百七十円、アルミ箔二百二十円。マッチ百円、洗剤百八十円。
スタンドで。白灯油三缶千二百円。
Ｓ農園で。山芋一キロ三百円。Ｓ農園ではおでんをはじめた。十五人ほど
客が入っている。
昼 月見まんじゅう(山芋をうらごしして皮にし、中味はとりひき肉の甘辛く
煮たあん。ふかして、おつゆに浮かして食べた)とほうれん草。
歯がないから、こんなものをためしに作ってみた。主人「おいしいけど、一回だけで
いい。ワンタンの方がいい」と言う。
夜 ごはん、ひらめのでんぶ(私)、ハンバーグステーキ(主人)、野菜スープ。
うす赤い暗い空。風がつよい。家があったまったせいか、昨夜より寒くない。
玉はぐっすりねこんでいる。
今日夕方、玉は、はじめて一と足、真白な右足を硝子戸の敷居より出してみた。
大急ぎでひっこめ、また出してみた。次にひょっと敷居をこえ全身をテラスに
出してみた。そうして嬉しそうに得意そうに甘い響く声で鳴いた。
●７回目の「山行き」二日間の日記を、またしても全文書き写してしまった。
もう４４回にもなる『身心快楽』と題したこの「日記」。ただ書き写すだけの日記を
訪れてくれる人がいる。
すでに『富士日記』を読んでいるのに・・。
なんと冗長なことをしているのか、お前の言いたいことは何なのか、
と言われそうである。
私自身、そう思う。
しかし、書き写すだけで私はしみじみとする。
これで十分なのだ。
●一日目の日記「谷崎賞や三島由紀夫さんのことがあって・・」の「三島由紀夫さん
のこと」とは、昭和四十五年十一月二十五日「作家・三島由紀夫、楯の会会員４人と
市ヶ谷の自衛隊に乱入し、クーデターを訴え失敗。会員１人とその場で割腹自殺」の
「三島事件」のことである。
これも前に読んだ、村松友視『夢の始末書』に詳しく書いてあった。
（泰淳が雑誌『海』に連載していた小説）「富士」の中に、一条実見という人物が
出てくる。その男は、自分を宮様であると称する狂人で、その個性の設定は
どこか三島由紀夫を想起させるものがあった。そして筆者である武田泰淳は、
”自分を宮様であると信じている男”と”本当の宮様”のあいだに、どれほどの
差があるのだろうかという視点をも、作品の中に入れ込んでいたのだった。
この一条実見が、いったいどのような行動にでるか・・・それは、連載を読み進める
読者の大きな興味だった。
・・・
昭和四十五年の十一月二十日、私は武田泰淳からその月の原稿を受け取って、
印刷所へ入れた。そして、その初稿ゲラが出て来たのが、十一月二十五日だった。
（村松友視はこの日、ゲラの読み合わせをするために、印刷所の大日本印刷へ
向かおうと身支度しているときに、このニュースを聞く）
印刷所では、トランジスタ・ラジオを持ってきた者があって、仕事も手につかない
感じで、編集部一同が聞き入っていた。 ・・・
それでも仕事を進めなければと、「ゲラ」の読み合わせをやったとき、
私は躯の芯をしごかれるような戦慄をおぼえた。
登場人物の中で、三島由紀夫を想起させる一条実見が、本物の宮様の目の前で
服毒自殺を計るという挙に出るシーンを、私は何度も反芻した。 ・・・
読者が『海』を手にする十二月七日頃は、新聞や雑誌は三島由紀夫事件で
埋めつくされていることだろう。そうなると読者は、武田泰淳が三島事件を
ヒントにこの小説を書いたとしか、読みようがないのではないか・・・
私が、担当者として「やばい」と思ったのはこの点だった。
十一月二十日に脱稿、二十五日にゲラ出校、七日発売・・・
この順序を意識できるのは、たぶん担当者である私しかいない。
しかも、「富士」が単行本になって出るのはさらに先のことだ。
●三島由紀夫の葬儀に、武田泰淳は僧衣を纏って出かけた。
そんなことがあったのだ。
ずいぶん横道にそれたけれど、そんなことを思い出しながら
書き写している。
しかし、それにしても何と冷えきった家の中か。
暖炉を焚いてもなかなか温まらない、ふとんは冷たい、部屋の空気も冷たい。
買出しに下る。
歳末が近づいた河口湖駅。例年のことではあるが、駅はがらんとして、スケート靴を
肩から下げた学生が十人位、立っているだけ。
山芋は、いつも買う。 歯の悪い泰淳のために。
のしいか、チーズ、いも煎餅、みかん、これも泰淳のもの。
月見まんじゅうを蒸かして、おつゆに浮かして出してみた。
「おいしいけど、一回だけでいい」という。これは、「まずい」とゆうことだ。
昨夜は、眠れなかったので顔がはれぼったい。
鏡をみるとイヤになる。
そんな中、「猫」が動き出す。百合子さんの分身のように動きはじめる。
今日夕方、玉は、はじめて一と足、真白な右足を硝子戸の敷居より出してみた。
大急ぎでひっこめ、また出してみた。次にひょっと敷居をこえ全身をテラスに
出してみた。そうして嬉しそうに得意そうに甘い響く声で鳴いた。
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