■身心快楽(41)
●６月１０日(水) 雨
バリウムを飲む前に、発泡剤を飲んだ。
「お腹がちょっと張りますが、しばらく我慢してくださいね」と
言われ、胃の透視の検査台に立った。
ひとくちバリウムを飲んだ。
とたんに、「げっぷっ」。
もう一回、発泡剤を飲んだ。
右の腰を上げ、左の腰を上げ、
ぐるーっと回って、
腹這いになったり、仰向けになったり
「むうーっ」とこらえて
ようやく検査が終わった。
「はい、もういいですよ」
とたんに、また「げっぽっ」。
●仕事帰り、新開地本通りを通って帰ってきた。
交差点に、雨の中、透明のビニール合羽を着て、手には赤いランプの
標識棒をもって、もう七十を超えていそうな警備のおじいさんが立っていた。
信号が青に変わったら、誰もおじさんのことなど気にもせず、
横断歩道を渡って行った。
ちょっと邪魔になるような感じで渡って行った。
きょう、ボートピアは夜間開催されるようだ。
雨が降るからだろう、会場へ向かう人は早足に歩いた。
このあたりも本日梅雨入りした模様だ。
●「富士日記」昭和四十五年
どこで立ち止まり、何に目がいくか、と同じように
何を書き、何を書かないか、ということもある。
書いてあるからわかることや
書いてないのでわかることもある。
「前六時、東京を出る」「明朝、帰る」と書いてあれば、その日付で
「山行き」の始めと終わりがわかる。
始めと終わりに挟まれた日で、「日記」に日付のない日は書かなかった日。
しかし、終りの日付のない「山行き」もある。
ガソリンスタンドのおばさんの話を書いた日の翌日から、八月の最後の日付まで
一部(八月六日)をのぞき、省略せずにその全文を書き写してみよう。
そうしたら、何を書いて何を書かなかったか
書いてあるからわかること、書いてないからわかること、
それがわかるかもしれない。
もちろん、書いても書かなくても日は過ぎていくけれど・・。
●七・八月、拾遺��
▼七月二十九日(水） 快晴 とても暑い
今日も陽がさしてこないうちに草刈り。
朝 カレーライス、トマトとアスパラガス、紅茶。
「今日が一番暑くなりそうだぞ」テラスの椅子に腰をおろして紅茶をのみながら、
西の山の方を見ていた主人が言う。
十一時半、筑摩書房の高橋さんに電話をする。中里介山全集の記念講演を
十月八日と十五日の二回してくれないかとのこと。「帰って主人にきいてから、
午後、諾否の返事の電話をいれる」と答えて家に戻る。
テラスの日陰の椅子にいた主人、額のところに手をあてて、ゆっくり首を振る。
木陰のせいか蒼ざめてげっそりして見える。
「講演はもうイヤだ。いましている仕事をゆっくりやりたいからなあ」と言う。
昼 パン、野菜スープ、チーズ、桃。
三時、電話をかけに行く。
高橋さんは「歯がわるいから御無理とは思っておりましたが」と、
承知して下さる。
桃三個、管理所で買って帰る。百六十五円。
夜 ごはん、紅鮭缶詰、大根おろし、おろししょうが、茄子の丸煮、
炒り豆腐(にんじんとひじきを入れた)、桃。
歯がなくなってきて、主人「桃っておいしいな」といって、皮をむくそばから
待っていて、すするようにして食べている。
八時ごろ、西の空で稲光り、九時ごろから雨沛然と降り出す。今年も「黒い雨」を
読む。
▼七月三十日(木） 雨、風一日中吹く
一晩、雨はげし。
昨夜ねるとき、車の窓が開けてあったのを思い出した。庭のすすきがのびてきて
いてお化けのことを思い出したから、閉めに行かなかった。
雲がどんどん動いてゆくのに空は晴れず、風雨はやまない。セーターを着て
起き出す。
二時半ごろ管理所に行き、桃四個(一個五十五円)とねぎを買う。
長ねぎ、細い小さいのが一本二十五円なのにおどろく。ねぎの白いところに
２５と赤いマジックインキで書いてあるのは一本の値段なのである。
村役場へ村民税を納めに下る。村民税全期四千九百八十円。
缶ビール二千四十円。
Ｓ農園で。山芋六個六百円。
朝日新聞学芸部より電報。「丸谷[才一]さんへ電話するように」と。
私だけ明朝東京へ行ってくるはずだったが、主人も一緒に帰るという。
今日は草刈りが出来なかったから、主人はレコードをかけては、
ふとんに入ってきいていた。私は裁縫をしていた。花子の服仕上がる。
ときどき「黒い雨」を読んだ。
夜は虫が鳴いている。小さな台風が九州の方にあるとか。
▼七月三十一日
主人共に帰京。東京暑し。
▼八月一日
花子を連れて、三人で山へ戻る。
花子の学校の宿題写真のモデルとなって、いろいろと変装したり、
駈けずりまわったりして私は燥いだ。「黒い雨」を読む。
▼八月六日 快晴
大岡さん、中央公論の粕谷、高橋、早川三氏を案内して、一時ごろテラスに下りて
こられる。
・・・ 一行４人が武田山荘で過ごす様子、文庫本約１ページ分を省略 ・・・
粕谷さんたちも河口湖から電車で帰るから、と立ち上がる。
四人を乗せて大岡家まで行き、大岡さんをおろす。大岡家の熊間寄せには
赤い車がとまっていて、水着姿の若い人たちがトランクを開けて何か出しては
騒いでいる。
花子にレコードを貸してあげるから持っていけといわれるので
玄関まで行くと、家の中には弟さんの奥様らしい方が簡単服を着て、
ニコニコしていた。夏休みらしい感じが一杯していた。
河口湖駅まで送って戻る。
レコードは、ウッドストックの原版、というのだった。花子はすぐかける。
花子は今日、午前中からバスに乗って下り、樹海へ写真をとりに行っていた。
足を挫いて帰ってきた。
▼八月七日
花子と吉田に行き、レコードを買う。「朝日のあたる家」「イージーライダーの
バラード」両方ともドーナツ版。
「黒い雨」を読んでくらす。
▼八月八日
朝早く、花子を送りがてら、東京へ。午後山へ戻る。
▼八月十一日
銀たら七十五円。上豚肉二百グラムニ百円、角揚げ一枚二十円。
ぶどうニ百四十円、醤油八十円、梨四個二百四十円、きゅうり二本四十円、
トマト三個九十円、バター百八十円。里芋十個。
トイレットーペーパー六個二百円、ノーシン千百円、オブラート百二十円、
ケンミン五百四十円。
バイヤステープ、スナップ、ボタン合計二百九十円。
トマト六個、菓子百円、卵六個、ねぎ五本、茄子十個、桃三個、
じゃがいも十個。
給油、オイル〇・五リットル。
キャベツ二十円。
▼八月十二日 くもり空 涼し
▼八月十三日 晴 風あり
山は涼しかったが、町へ下りると炎暑。
大根二十円、桃三個二百十円、茄子十個四十五円、レモン一個四十五円、
ぶどう六房二百三十円。
茶百グラム五百円、ほうじ茶百グラム百二十円、小豆五合三百二十五円、
桜海老五十円、のしいか九十円、うどん十玉百五十円、パン四十五円。
ビール一箱。
農協で。チッカリ六キロ百五十円。
仁丹二百円。
●日記は「八月十三日」の次は、「九月二日」となる。
▼九月二日(水) くもりのち晴れ
朝六時、東京を出る。
と書き出している。
おそらく、「山行き」は七月十八日に始まり、八月二十七日ころまで
いたのではないか。
夏休みを山荘で暮らしたのだ。八月一日から八日まで花子さんも来ていた。
車で送って行った大岡家を覗くと「夏休みらしい感じが一杯していた」。
武田家はどうだったんだろう。
「八月一日」、写真学校に通うようになった花子さんの宿題写真のモデルになって
変装したり、駈けずりまわったりして、「私は燥いだ」と書く。
が、何となく「から騒ぎ」しているように思うのはどうしてだろう。
炎暑の下の町までの「買出し」。
管理所へは夫のかわりに電話。
長逗留は「女の仕事」が増えそうな気もする。
娘は成長する。
夫は、「蒼ざめてげっそりして見える」。
「桃」「桃」「桃」・・、「桃」を買う。
「八月十一日」に行った最初の八百屋では「桃」がなかった。
二軒目の八百屋では「桃」と、「トマト」もさっき買ったものより新鮮だったので、
六個追加で買った。
もう、この日は「日記」を書く気力もない。
呪文のように買ったものを書いていく。書いていったら二十六品あった。
品物の名前と値段だけを、機械的に書いていく。そうすると、少し落ち着き、
充実するような気がする。
「黒い雨」を読む。今年も「黒い雨」を読む。
「雨沛然と降り出す」、私も一度、こんな言葉を使ってみたかった。
「吸血鬼」「激戦地」、吉田の映画館の夜の部・三本立て四百円、
私も行きたい・・・。
農協で、窒素カリ肥料を買った。庭の花にやろう。
駅の売店で「仁丹ニ百円」。
これは、誰のために買ったのだろう。
一ヶ月ちょっとの夏休み。
昭和四十五年の夏・「山行き」は、そうやって過ぎていった。
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