■身心快楽(29)
●「富士日記」昭和四十五年五月
▼五月二十七日(水) 晴、風つよし
夢の中でうぐいすが啼いているようだったが、眼がさめると、そのまま
夢から続いて庭で啼いている。
尖端が紅い松の芽は鶴の首のように伸びて、いっせいに西を向き
風に吹かれている。庭いちめんにすみれが咲いている。ぼけも満開。
粉っぽい、こやし臭い、お化粧くさい匂いが漂っている。すみれの匂いだ。
・・・・
十時ごろ本栖湖へ。主人同乗。
富士山は雪が少なくなった。肌は鉄色に輝いている。真夏の色だ。
風はつよい。陽射しは烈しい。
下部へのトンネルの手前を下って一周する。本栖湖は浪立ち、明るいインクの
色をしている。
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湖をとりかこむ山々の雑木は若緑にもえ上がって、湖水の蒸気で煙っている。
白い花が咲いていたのはアカシアらしい。
緑の洞のような湿った道を、運転していることも忘れてぼんやりと抜け、
キャンプ場の拡がる岸に出る。眠気が襲ってくるのは、若葉がふきかけてくる
酸素のせいだ。一周する間、車にまったくすれちがわない。
夢うつつに運転していても事故も起きない。
「あら、私はハンドルのところに手をやって車を運転していたのだっけ」と
思う。
●日常は平凡なものである。そんなに変ったことがあるのでもない。
だるく疲れてぼんやりしている。
眠気が襲ってくるのは、若葉の吹きかける酸素のせいかどうかしらないが、
日常はそんなものである。
酒屋で。ぶどう酒、煮豆、サントリーレッド一本五百円、夏みかん三個
二百四十円。
ガソリン代九百円。
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夜、ごはん、麻婆豆腐、小鯛煮付ののこり。
麻婆豆腐の唐辛子が少し入れすぎで、主人ひどく汗を出す。
▼五月二十八日(木) 晴、風なし
朝 ごはん、中華風オムレツ、大根味噌汁、大根おろし、しらす。
昼 パン、牛乳、ソーセージ(百合子)、ごはん、はんぺん、清し汁、
大根おろし(主人)。
夜 お雑煮(とり団子とみつば、粟餅)。
風がないので、うち中のふとんと毛布を干す。うぐいすはあまり啼かない。
トッキョキョカキョクと啼く鳥が多くなった。畑の大根の芽は、
出るとすぐ虫が全部たべてしまった。
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●以上が、昭和四十五年五月の三回の「山行き」であった。
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