■身心快楽(25)
●6月2日(火) 晴れのち曇り
朝、「冷や汁」だった。
「冷や汁」は私の大好物。
私の家では「薩摩汁」と呼んでいたが、
「冷や汁」は宮崎の郷土料理といわれている。
うちでは、アジを焼き小骨をとって身をすり鉢ですり下ろし、
味噌をだし汁でといて、これを、すり鉢ですりおろしてほぐれたアジの身に
注ぐ。そして冷蔵庫で冷やして、薄く刻んだキュウリと青じその刻んだのを
トッピングして、あったかいご飯にかけて食べる。
私があんまり食わないものだから、
朝から「冷や汁」が出た。
この際と思い、いっぱい作ったためか
すり鉢の中には、アジのすり身が圧倒的に多い。
ご飯にかけても、汁が少ない。
「そんなことあんたに言われんとも、わかっとる!」と反撃されるのを承知で、
「ちょっと汁が少ないんだけど・・・」と言うと、
すり鉢から、お玉で汁ばかりを掬って茶碗にかけてくれた。
「お水で薄めればいいもんじゃないのよ。だし汁を取って味噌をといて
冷やして、それを足さんといかんのよ、あんた、わかっとる!」
と言われた。
冷や汁を茶碗一杯食べたら、げっぷが出た。
おいしかった。
「たったそれだけで・・」と言われたのだが、
私はもう胸いっぱい、腹いっぱいだった。
●「富士日記」 昭和四十五年五月
翌五月四日は、隣の別荘を住み込みで管理している老夫婦の
「隣のおじいさん」との会話を書いている。
▼五月四日 やや晴れ
連休の天気予報は外れて、今日も雨ではない。ときどき陽がさす。
台所の窓の前の富士桜、かんざしのような形に花をひらく。
ダンガンの中にゴミを入れて燃やしていると、隣のおじいさんが垣根の向こう
から、「奥様。今日は何をしておいでになります?」と改まった言葉つきで
声をかけた。
「今日はゴミを燃やしております。おじいさんは何をしていらっしゃいます?」
と私も改まって答えると、「タンポポの苗を植木屋からもらったので
植えております。来年は綿毛になって、奥さまのお庭にも飛んで行って
わけて差し上げることになりますです」「それはありがとう」
「来年のことでしたら、このタンポポの方がたしかでございます。私の方は
この世にいないかもしれませんでございます」「では今年のうちにお礼して
おきましょう」。
おじいさんは本当は八十近いのだそうだ。少し若く言って留守番の仕事に
就いているのだから黙っていてほしい、と小さな声で言う。
●「ダンガン」というのは、灯油缶を切ってゴミ焼き用に加工したもので、
このおじさんが教えてくれたものである。
百合子さんのとぼけた感じが伝わってくる。
また、このおじいさんというのも、ちょっとヘンなのである。
とても親切にしてくれるが、連れ合いのおばあさんとはよく口喧嘩するようである。
きのうの「日記」は書けても、あしたの「日記」は書けない。
しかし「富士日記」では、あたかも「今日の日記」が「明日の日記」の予告編で
あるかのように、明日のことをすでに承知で書いている風がある。
「では今年のうちにお礼しておきましょう」と、ふざけて言っているのが
いま読むとしみじみする。
●おじいさんと話したあと、百合子さんは去年の春、管理所の人に秘密に
教えてもらった山椒の木のある林に行ってみる。
二本あった山椒は二本とも掘られて大きな穴があいていた。
このまわりは山椒の匂いがたちこめていたのに。
ひとまわり歩いて帰って来ると、車のところに、さっきまではなかったのに、
小鳥が仰向けにひっくり返ってもがいている。
片方の肢をつっぱって、もう片方の肢は折ってちぢこめている。
ひっくり返してやっても片方の肢がつっぱったきりなので、バランスがとれず、
すぐに仰向けになってしまう。脚の関節が折れているのだろうか。
うぐいす色をしているが、うぐいすより少し大きい。
麦わら帽子の中に入れて持って帰る。ラードとすり餌を竹串の先につけ
口へもっていくと、喰いついて食べる。
何度か食べさせていると元気になって、眼をあけてピッピッと啼くように
なる。肢をしきりに動かして腹這いになろうとしている。
夜 ごはん、東坡肉、白菜とアスパラガスとカリフラワーとにんじんなどの
スープ煮。
主人の下痢とまり、すっかり元気になる。一日中眠ってタバコ、ビールを
飲まないでいた。東坡肉はおいしいという。スープ煮もおいしいという。
ごはんが終わってから、熱い湯で主人の体を拭く。脚も拭く。
脚の指も拭く。
明朝帰ることとなる。
夜、又鳥に餌をやる。とても残忍なことをしている気持。いい気持。
鳥は時々、丸い黒い光った目をあける。
●そして、翌日
▼五月五日
前五時半に起きる。
鳥は麦わら帽子の中で死んでいた。棄てる。
●「五月五日」の日記を私は2行の分かち書きにしたが、「本」では
たった1行で全文の日記である。
どんな感想を抱かれただろうか。
鳥に餌をやる。
とても残忍なことをしている気持。
いい気持。
東坡肉はおいしいという。
スープ煮もおいしいという。
主人の体を拭く。
脚も拭く。足の指も拭く。
おそらく、きっと、これは対になっているのだと私は思う。
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