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2006年03月30日22:38

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●朧霞抄 (15)/■嘘(うそ)

■蜘蛛の糸

 ●ロシアの詩人、エセーニンの詩にこんなのがある。


   さようなら 友よ さようなら
   わが友、君はわが胸にある
   別離のさだめ――それがあるからには
   行き遭う日とてまたあろうではないか


   お別れだ! 手をさし出さず ひとことも言わず
   友よ 別れよう
   うつうつとしてたのしまず 悲愁に眉をよせるなんて――
   今日にはじまる死ではなし
   さりとて むろん ことあたらしき生でなし


 ●私の墓は、淡路の隆泉寺の父母の眠るところになるだろう。
  卒塔婆、一本くらいは立つだろう。


  しかし、もし、墓碑銘(エピタフ)を刻むとしたら、このエセーニンの
  「さようなら さようなら」にしようと思ったことがある。

  死さえも、

   今日にはじまる死ではなし・・・

  と思ったからだ。


     
 ●そして、名誉であれ、地位であれ、人はそのほとんどを
  死を超えてもっていくことはできない。

  すべては、この世のことで、まだ見ぬあの世があるのか、ないのか、
  それさえ定かではない。

  詮ないことは、詮ないことで、未練があろうが、なかろうが
  死は、それらも一緒に連れ去ってくれるだろう。


  墓場まで、もし持っていくとしたら、わずかな「秘密」と「嘘」くらいの
  ものだろう。


 ●ただし、その「嘘」が自分をだます「嘘」だったとしたらどうだろう。

  自分自身を、だまし、だまし、やってきた、しのぎのための「嘘」、
  保身や生きるための「嘘」。これは、しょうがない。

  嘘も方便。

  人様についた「嘘」、自分についた「嘘」。これらは納得づくだ。



  しかし、そうではなく、自分自身を裏切る「嘘」、自分さえも
  信じないような「嘘」、自分で「嘘」か、「本当」かもわからぬ
  ような「嘘」。こんな「嘘」はどうなんだろう。


  
  そんなときでさえ、孫がときどき言うように、
  「まっ、いいか」とつぶやいて、人はおさばらできるものなのか。


  私には、よくわからない。

  芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のカンダタように、死の瀬戸際で、
  何かの拍子もし一条の光が射して、真実の自分の姿がさらけ
  出され、それを見た瞬間「蜘蛛の糸」がぷっつりと切れ、
  地獄に落ちる。

  そんなことはないのか。


  あれば、それは恐ろしいことである。



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