■蜘蛛の糸
●ロシアの詩人、エセーニンの詩にこんなのがある。
さようなら 友よ さようなら
わが友、君はわが胸にある
別離のさだめ――それがあるからには
行き遭う日とてまたあろうではないか
お別れだ! 手をさし出さず ひとことも言わず
友よ 別れよう
うつうつとしてたのしまず 悲愁に眉をよせるなんて――
今日にはじまる死ではなし
さりとて むろん ことあたらしき生でなし
●私の墓は、淡路の隆泉寺の父母の眠るところになるだろう。
卒塔婆、一本くらいは立つだろう。
しかし、もし、墓碑銘(エピタフ)を刻むとしたら、このエセーニンの
「さようなら さようなら」にしようと思ったことがある。
死さえも、
今日にはじまる死ではなし・・・
と思ったからだ。
●そして、名誉であれ、地位であれ、人はそのほとんどを
死を超えてもっていくことはできない。
すべては、この世のことで、まだ見ぬあの世があるのか、ないのか、
それさえ定かではない。
詮ないことは、詮ないことで、未練があろうが、なかろうが
死は、それらも一緒に連れ去ってくれるだろう。
墓場まで、もし持っていくとしたら、わずかな「秘密」と「嘘」くらいの
ものだろう。
●ただし、その「嘘」が自分をだます「嘘」だったとしたらどうだろう。
自分自身を、だまし、だまし、やってきた、しのぎのための「嘘」、
保身や生きるための「嘘」。これは、しょうがない。
嘘も方便。
人様についた「嘘」、自分についた「嘘」。これらは納得づくだ。
しかし、そうではなく、自分自身を裏切る「嘘」、自分さえも
信じないような「嘘」、自分で「嘘」か、「本当」かもわからぬ
ような「嘘」。こんな「嘘」はどうなんだろう。
そんなときでさえ、孫がときどき言うように、
「まっ、いいか」とつぶやいて、人はおさばらできるものなのか。
私には、よくわからない。
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のカンダタように、死の瀬戸際で、
何かの拍子もし一条の光が射して、真実の自分の姿がさらけ
出され、それを見た瞬間「蜘蛛の糸」がぷっつりと切れ、
地獄に落ちる。
そんなことはないのか。
あれば、それは恐ろしいことである。
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