■幸・不幸について
●歳をとるということは、ある面では幼児にもどるようなところもある。
が、反面、若いころには気恥ずかしくてできないようなことが、
臆面もなくできるような、厚顔さも備わってくる。
これは、老人の嫌われるところでもある。話が長かったり、
くどかったり。もう、結論の出ていること、わかっていること、
それらを性懲りもなく繰り返す。意識して、これをやるとすれば、
それは「老化」もかなり進み、「いやみ」に近い。
●「しあわせ」「幸・不幸」については、これまでも何回か
折にふれ書いた。それは、私がそのことを、大切なことと考えて
いるからだ。
「希望」と同じように、若いころには、「幸福」などという名の
ついた「本」や、これを直接、論じた書き物は、気恥ずかしくて
手にすることもできなかった。
それは、「哲学」ではなく、「処世」に見えた。「人生論」「幸福論」
の類は、これは手垢のついた、陳腐な、まるで夜店で売ってる
玩具のように見えた。
●「ハウ・ツー」ものと同じように、私は、これらのテーマを
実用書として取り扱い、もし、これらの「本」を手にするように
なったら、それは自分がかなり疲れてきた証拠だ、と考えていた。
しかし、その考えが変わってきた。自分が迷い、戸惑い、
頭をぶつけていること、それは、高尚な思想や哲学においてでなく、
この目の前の、現実をどう処理するか、またできるか、その
「ハウ・ツー」のまずさにあるのではないか。
思想や哲学は、実践で試される。目の前の現実を1ミリとて
動かせない思想や哲学は、それはどこかで間違っている。
●思想や哲学は、日常を処理する「ハウ・ツー」に深く根ざして
いなければならない。ちょっとや、そっとで、変わるようなもので
あってはならない。
そんなことを考えたわけではない。しかし、自然とそんなことに
気づくようになった。
それは、つかこうへい「娘に語る祖国」を読んだときに感じた。
私の子供たちが、自分で暮らしをするようになって、私は
子供たちの「幸・不幸」を思わずにはいられない自分を発見した。
まだ幼い「こども」ではなく、「大人」になった私の子供の
幸・不幸が視野に入ってきて、私は素直に「幸福」や「しあわせ」の
ことが考えられるようになった。
●そして、やはり人生の年月というものがあった。
50歳を過ぎたころから、私は何の気恥ずかしさもなく、
「よく、ここまで生きてこられたものだ」と思うようになったし、
また、率直にそう言えるようになった。
そして、「人間、一寸先は闇」、また「禍福はあざなえる縄の如し」
という実感ももった。
また、「一灯を掲げて暗夜を行く」(佐藤一斎)、や
「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、
死ぬがよく候。是ハこれ災難をのがるる妙法にて候」(良寛)
ということも、体験した。
●ソクラテスは、人間がほんとうに求めているもの、それを
「善」と名づけた。そして、その「善」を手に入れたとき、
人は幸せになれると説いた。「善」、それが果たして何であるか。
それは誰も知らない。
自分が何を求めているのか。「善」とは何か。
ソクラテスは、世間の通念に冒され、自分のほんとうに求めている
「善」から遠ざかっている人々に言った。
「汝自身を知れ」と。
■案内
・
日記/「Home」案内
・
「幸福」と幸田露伴のこと
・
年年歳歳花相似
ログインしてコメントを確認・投稿する