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2006年03月27日01:53

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●朧霞抄 (10)/■気恥ずかしいこと

■幸・不幸について

 ●歳をとるということは、ある面では幼児にもどるようなところもある。
  が、反面、若いころには気恥ずかしくてできないようなことが、
  臆面もなくできるような、厚顔さも備わってくる。


  これは、老人の嫌われるところでもある。話が長かったり、
  くどかったり。もう、結論の出ていること、わかっていること、
  それらを性懲りもなく繰り返す。意識して、これをやるとすれば、
  それは「老化」もかなり進み、「いやみ」に近い。


 ●「しあわせ」「幸・不幸」については、これまでも何回か
  折にふれ書いた。それは、私がそのことを、大切なことと考えて
  いるからだ。

  「希望」と同じように、若いころには、「幸福」などという名の
  ついた「本」や、これを直接、論じた書き物は、気恥ずかしくて
  手にすることもできなかった。

  それは、「哲学」ではなく、「処世」に見えた。「人生論」「幸福論」
  の類は、これは手垢のついた、陳腐な、まるで夜店で売ってる
  玩具のように見えた。



 ●「ハウ・ツー」ものと同じように、私は、これらのテーマを
  実用書として取り扱い、もし、これらの「本」を手にするように
  なったら、それは自分がかなり疲れてきた証拠だ、と考えていた。



  しかし、その考えが変わってきた。自分が迷い、戸惑い、
  頭をぶつけていること、それは、高尚な思想や哲学においてでなく、
  この目の前の、現実をどう処理するか、またできるか、その
  「ハウ・ツー」のまずさにあるのではないか。

  
  思想や哲学は、実践で試される。目の前の現実を1ミリとて
  動かせない思想や哲学は、それはどこかで間違っている。



 ●思想や哲学は、日常を処理する「ハウ・ツー」に深く根ざして
  いなければならない。ちょっとや、そっとで、変わるようなもので
  あってはならない。


  そんなことを考えたわけではない。しかし、自然とそんなことに
  気づくようになった。


  それは、つかこうへい「娘に語る祖国」を読んだときに感じた。
  私の子供たちが、自分で暮らしをするようになって、私は
  子供たちの「幸・不幸」を思わずにはいられない自分を発見した。

  まだ幼い「こども」ではなく、「大人」になった私の子供の
  幸・不幸が視野に入ってきて、私は素直に「幸福」や「しあわせ」の
  ことが考えられるようになった。


 ●そして、やはり人生の年月というものがあった。
  50歳を過ぎたころから、私は何の気恥ずかしさもなく、
  「よく、ここまで生きてこられたものだ」と思うようになったし、
  また、率直にそう言えるようになった。


  そして、「人間、一寸先は闇」、また「禍福はあざなえる縄の如し」
  という実感ももった。


  また、「一灯を掲げて暗夜を行く」(佐藤一斎)、や
  「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、
   死ぬがよく候。是ハこれ災難をのがるる妙法にて候」(良寛)
  ということも、体験した。



 ●ソクラテスは、人間がほんとうに求めているもの、それを
  「善」と名づけた。そして、その「善」を手に入れたとき、
  人は幸せになれると説いた。「善」、それが果たして何であるか。
  それは誰も知らない。

  自分が何を求めているのか。「善」とは何か。
  ソクラテスは、世間の通念に冒され、自分のほんとうに求めている
  「善」から遠ざかっている人々に言った。

  「汝自身を知れ」と。



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