■視線
●ある風景でも、なにかの拍子に、普段とちがった角度から見る
ことがあり、そのとき、風景はいつもとは違った意味、異形の
何かに見えることがある。
同じ風景、同じ場所だと信じているので、通常は角度を変えても
「同じ風景」「同じ場所」だと思っているし、そう見える。
これは、おかしなことだ。
上から見るのと、横から見るのでは、その風景(像)は異なって
網膜に映っているはずだ。でも、脳の中で処理されて、私たちは
その「風景」「場所」の同一性を疑わない。
●ところが、トイレに入っていて考え事をしていたり、風呂に
浸かってウトウトしていたりして、心が今のこの地点から
すーっと抜け出すことがある。何を考えていたか、何をウトウト
していたか、それはわからない。
しかし、そんな心の状態から、再びトイレの中の自分や、
風呂に浸っている自分にもどるとき、私は一瞬、ふっと、
「ここはどこ?」、という不安定な心理状態になり、「風景」が
飲み込めず、「場所」が認識できない。
●これは、自己の「同一性」や「連続性」が途切れたために、
「風景」や「場所」の「同一性」「連続性」も途切れたと
いうことなのだろうか。
日常生活で、しょっちゅう「同一性」や「連続性」が途切れるとしたら
これは精神の異常を示すもので、いわゆる「ぷっつん」状態に
なる。
●けれども、「ものの見方を変えよう」「角度を変えてみる」
「ひとの立場に立って考える」とは、よく言われる。
もちろん、これは本当にそうはできなくても、そのように考えてみよう
という「思考訓練」「ものの譬え」なのかもしれない。
もし、本気でやろうとすれば、私たちは一度、「ぷっつん」を
覚悟しなければならない。それ以前とそれ以後は「断絶」され
なければならない。
●朝、目覚めたとき、新しい自己であるためには、「私はだあれ?、
ここはどこ?」と、まるでカフカの青虫のようにつぶやかねば
ならない。
●私が30数年働いていた職場を退職して、「辞めてよかったこと」の
第一はこのことだった。
「生協」という職場だったので、「組合員のために」という
視線で働いてきた。また、「組織」も「組合員のために」という
視線で職員を導いてきた。
しかし、その視線はどこまで行っても「○○○のために」という
視線であって、「○○○」の視線ではない。
きわめて、当たり前のことを私は体で発見した。
頭で発見したのではない。目で、そうしか見えないのである。
私は「組合員」ではあっても、「職員」ではなかった。
もちろん、そうなるには暫くかかった。中には退職しても
職員の視線のままの者もいる。OB会などもある。
●それと、組織の視線はいつも組織の方を向く、ということにも
気づいた。基本的に組織の視線は「内向き」である。
だからこそ、「外向き」の視線を持った新規参入者が現れ、
企業の栄枯盛衰もある。
●「日々新し」というが、それには、昨日の自分と「断絶」する
覚悟と同時に、「同一性」や「連続性」を失った「自己」をも
引き受けるという重荷も背負わなければならないは、当然である。
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