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2006年03月25日00:38

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●朧霞抄 ( 7)/■内向き

■視線

 ●ある風景でも、なにかの拍子に、普段とちがった角度から見る
  ことがあり、そのとき、風景はいつもとは違った意味、異形の
  何かに見えることがある。

  同じ風景、同じ場所だと信じているので、通常は角度を変えても
  「同じ風景」「同じ場所」だと思っているし、そう見える。


  これは、おかしなことだ。
  上から見るのと、横から見るのでは、その風景(像)は異なって
  網膜に映っているはずだ。でも、脳の中で処理されて、私たちは
  その「風景」「場所」の同一性を疑わない。


 ●ところが、トイレに入っていて考え事をしていたり、風呂に
  浸かってウトウトしていたりして、心が今のこの地点から
  すーっと抜け出すことがある。何を考えていたか、何をウトウト
  していたか、それはわからない。

  しかし、そんな心の状態から、再びトイレの中の自分や、
  風呂に浸っている自分にもどるとき、私は一瞬、ふっと、
  「ここはどこ?」、という不安定な心理状態になり、「風景」が
  飲み込めず、「場所」が認識できない。


 ●これは、自己の「同一性」や「連続性」が途切れたために、
  「風景」や「場所」の「同一性」「連続性」も途切れたと
  いうことなのだろうか。


  日常生活で、しょっちゅう「同一性」や「連続性」が途切れるとしたら
  これは精神の異常を示すもので、いわゆる「ぷっつん」状態に
  なる。


 ●けれども、「ものの見方を変えよう」「角度を変えてみる」
  「ひとの立場に立って考える」とは、よく言われる。

  もちろん、これは本当にそうはできなくても、そのように考えてみよう
  という「思考訓練」「ものの譬え」なのかもしれない。


  もし、本気でやろうとすれば、私たちは一度、「ぷっつん」を
  覚悟しなければならない。それ以前とそれ以後は「断絶」され
  なければならない。


 ●朝、目覚めたとき、新しい自己であるためには、「私はだあれ?、
  ここはどこ?」と、まるでカフカの青虫のようにつぶやかねば
  ならない。



 ●私が30数年働いていた職場を退職して、「辞めてよかったこと」の
  第一はこのことだった。

  「生協」という職場だったので、「組合員のために」という
  視線で働いてきた。また、「組織」も「組合員のために」という
  視線で職員を導いてきた。


  しかし、その視線はどこまで行っても「○○○のために」という
  視線であって、「○○○」の視線ではない。

  きわめて、当たり前のことを私は体で発見した。

  頭で発見したのではない。目で、そうしか見えないのである。

  私は「組合員」ではあっても、「職員」ではなかった。




  もちろん、そうなるには暫くかかった。中には退職しても
  職員の視線のままの者もいる。OB会などもある。



 ●それと、組織の視線はいつも組織の方を向く、ということにも
  気づいた。基本的に組織の視線は「内向き」である。
  だからこそ、「外向き」の視線を持った新規参入者が現れ、
  企業の栄枯盛衰もある。



 ●「日々新し」というが、それには、昨日の自分と「断絶」する
  覚悟と同時に、「同一性」や「連続性」を失った「自己」をも
  引き受けるという重荷も背負わなければならないは、当然である。




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